おそらくここに、現代芸術の秘めている危険性の第一の理由がある
戦争と平和のこのような世界的交配のなかにあって、「芸術意志」および美的行為の生産とは何を意味するのだろうか。経験の新しい態容がいずれの側に与することも拒んでいるとき、芸術はどこに帰属させるべきなのか。哀悼と幻滅の思考の貧弱なドラマトゥルギー〔作劇法〕に反対している現代の芸術家にとって、「戦争への戦争」、<戦争>に対抗する<闘争>とは何を意味するのか。美的なものを感受する能力がスペクタクルの時代の暴力全体をその狂気じみた持続性において生産する 無差別の表現にもとづくほかないのは、明らかである。そのときには、芸術家は絶対的な交配を通過せざるをえなくなる。芸術の自律性が生の潜勢力の他律性に触れた瞬間に深淵に落ちこんでしまう、現在へのこのような浸透を通過せざるをえなくなる。たんなる手段の領域に住みながら、単独的なものをそれがなんであれすべて受けいれることによって、芸術家は平和と戦争が走馬灯のように入れ替わる状態から脱却し、もろもろの事物の身体のうえに刻みこまれているそれらに共通の記号を浮き彫りにしはじめるのである。識別できないもののこの不透明な領域に身を投じることによって、芸術家は、偽りの社会的平和の感覚的証明の体系を破壊しつくしてしまうような<戦争>に対抗する<闘争>のなかで、自分のものでなくなってしまった政治の体制を自分のものに取り戻すのである。おそらくここに、現代芸術の秘めている危険性の第一の理由がある。現代芸術は、語ることのできるものと見ることのできるもの、現れ出ることと存在することと制作することとのあいだの関係の政治的な含意を規制しているもろもろのアイデンティティの分割に、直接自らを適用させているのだ。本当の意味で制作をおこなう、すなわち、アカデミズムによる媒介の外にあって制作するためには、それが転倒させるために暴露しようとしている当のものの生起のなかに、したがって「ニヒリズムの試練を生が通過する」(ジョルジョ・アガンベン)その内部と事後とに、身を置くことができなければならないのである。このトピックは、芸術作品の概念の拡大をつうじてのイメージのヘゲモニー的なメディア体制に対応したものである。そして、芸術家を他の職種から区別させているものが、(いまだ世界のかたちをなしていないもの)の表現から、感覚の質料へとカオスモスの雨を降らせることをつうじて、新しい可能な世界の構築を引き出そうとする努力にあることを教える。世界の美的カテゴリーとしての可能なものの経験は集合的な<いまだ世界のかたちをなしていないもの>から自らを物質的に引き抜くことをつうじて作品をつくることはしないというのが、芸術の現代的体制の特徴をなしているのである。作品をつくることをしないでいることこそが、あらゆる代理表象的なアイデンティティの外にあってわたしたちが共 – 有している単独性への手続き的な跳躍の可能性へと反転するのであってみれば、である。もはや共産主義的未来の美的先取りというかたちで表象することのできないようなこの立場を展示してみせること、戦争にたいして平和を過剰に露出させるなかで感覚的なものが崩れ落ちていく状況に自らをさらすこと。これこそは芸術の新しい方向である。芸術は、もはやなんらかの平和の存在の記憶に依拠することはできないでいる戦争にたいして異他的であろうとする共通の機械のなかにあって、自らの差異をたどっていくのである(自らの「行為」をひとつの「自由」として考えることの不可能性。平和は、もはや、世界のメディア的イメージに対抗する「戦争の最前線」における実存として以外には手にいれることはできないのだ。) (more…)
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