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2014/2/26 水曜日

まだ芸術になっていないなにかが見つかると、すぐさまそれはありがたくもこれぞ芸術と宣告された。非芸術であることが芸術の基準になったのだ

Filed under: 引用 — nomad @ 23:57:33

全体芸術様式スターリン 現代世界のあらゆるユートピアは芸術を源としている。爾来、芸術作品は、一貫した調和的な世界、悲劇的な世界、高められた世界、自由な洗練された世界とはどのようなものかを示すサンプルだった。こうした伝統的な理想を拒む今日のポストモダン芸術もまた新しい世界を、いかなる言語も様式も芸術において同等の代表権をもちうる多元的民主的世界を企図している。ただし芸術は、貨幣や他の商品と交換される商品になることだけはけっして望まない。いいかえれば芸術は、現在のあるがままの世界と、そこで芸術がじっさいに占めている位置とを承認したくないのだ。芸術と世界のあいだのこの断絶は世界へのプロテストを生みだし、世界を芸術の枠内にとどまらずじっさいに現実においてつくりかえようとする欲望を生みだすことになる。
 今世紀初頭のロシア・アヴァンギャルドは生そのものを変えてしまおうとするもっともラディカルな試みのひとつだった。生を変えるためにロシア・アヴァンギャルドは、周知のように、世界を説明するのではなく、やはり世界を変えようとしていたマルクス主義と連帯した。さらに当のマルクス主義もまた、芸術的理想を生活のなかで実現することをめざしていたドイツ・ロマン主義を源としていた。したがってどの労働者も、事物と自分の生活をまるごと創りだす自由な創造者すなわち芸術家とならねばならない。
 この目的を達成するために、なによりもまず、自由な創造という目的に社会生活の全体を聴き従わせることが課題となった。各人が働き、新世界の創造者とならねばならない。「働かざる者食うべからず」である。またそのためには、生産ではなく消費を日々の課題としていた支配者階級は根絶されねばならなかった。まさにそれによって芸術と創造は、消費者とその偏狭な嗜好から、市場から、貨幣の権力から開放される。またこうして芸術的な営みとして了解された労働は自由に発展していくための無限の可能性を手にする。ロシア・アヴァンギャルドも、またその一部であるソヴィエト・アヴァンギャルドも、芸術は作者の個性を反映し、作家によって価値を賦与される、と信じていた。だからこそ消費者よりも作家を上に置くことになっていたのである。貴族の位置を占めるべきなのはフレーブニコフのいう「創族」なのだ。
 しかしじっさいには、誰にも買われず欲しがられず、消費者をもたない芸術はその価値を失った。ソヴィエト社会の経済的破綻の原因はここにある。ソヴィエト社会の建設者たちは、社会全体を新世界の建設という課題に従属させることで社会に無限のダイナミズムを与えることができると考えたが、消費が消滅すると同時に生産のための指針も消え失せたため、じっさいに社会はその成長を止めた。消費と交換の圏域から排除された芸術は価値を失い、誰にも必要のないがらくたの山と化した。
 新しさの創出としての芸術そのものの根本にあるのは交換という操作である。芸術における新しさとは、芸術家が芸術の伝統を非芸術と交換するときに――たとえばマレーヴィッチのように伝統的な造形絵画を「黒い正方形」と交換するときに――生まれる。交換をこうして操作するには、芸術における価値のヒエラルキーや美術館という制度、芸術市場、芸術と非芸術の区別が前提となる。社会的に保障された、文化的価値の自律域を一掃し、現実と芸術とを同一視する単一の芸術プロジェクトをもってそれに代えようとすれば、それによって芸術は死に、それと同時に現実は死ぬ。芸術と非芸術の区別がなくなるのだから、すくなくとも創造はもはや不可能となる。現実全体が芸術となり美術館となり、ここではもはやなにも変えることができないのだ。スターリン時代のソヴィエト芸術が全体的な反復だったのはそのためであるといってよい。ソヴィエトの生活全体がスターリンと党を作者とする唯一の芸術作品として了解されていたため、芸術と現実とのあいだの革新的な交換は不可能となり、新しさは消失し、過去の永劫回帰だけが残された。
 もちろんスターリンのプロジェクトは世界全体を捉えることはできなかった。スターリンのプロジェクトの外には十分に現実の領域が残った。そのため、スターリン以降のロシアにはきわめて集約的な芸術実践が生まれ、それまで非芸術とみなされていたすべてのもの、卑猥語、重苦しく単調な日常生活、宗教的エクスタシー。エロティシズム、ロシアの民族主義的伝統、そして西欧の「ポップな」流行を新たな芸術的価値の領域へとずらしこんでいった。ロシアにとってそれはみずからの根幹を揺るがす事件だった。西欧にとってはそれはたんなる反復でしかなかった。ロシアの芸術が西欧においていちじるしい困難を経験したのはそのせいであり、また現に今もこの困難を経験しているのである。この困難はけっして無視することができない、というのもロシアの芸術が交換の圏域、特に芸術市場の圏域に再統合されるということはつまり、芸術がいかにつくられ機能するかに関する世界基準(すなわち西欧基準)にロシア芸術が照らし合わされることを意味するからだ。
 芸術がある意味で生活を独裁することの是非をめぐってソ連で議論が戦わされているとき、西欧でもやはり(しかし別のかたちで)芸術が生を吸収するプロセスが生じつつあった。つまりある時点から、西欧芸術ではいっさいが許されることになったのだ。まだ芸術になっていないなにかが見つかると、すぐさまそれはありがたくもこれぞ芸術と宣告された。非芸術であることが芸術の基準になったのだ。伝統的な意味での芸術に携わる芸術家は現代では真の芸術家として認知されない。真の芸術家とは非芸術に携わる者の謂であるとされているのだ。ソヴィエトの芸術家たちは力尽きる寸前にこうした事態に直面し、七〇―八〇年代の西欧でもまだ非芸術と考えていたもの、すなわち全体主義芸術にどうにか着手することができたわけである。ロシアのソッツアートが西欧で成功したのはそのせいなのだが、問題はしかし、芸術を非芸術として演出するメカニズムがすでに誰の目にも明らかになっているという点にある。確かにこの世界にはまだ、芸術の分野で使われてこなかった事物がみつかりはするが、やり口そのものが反復的になってしまったのである。
 芸術のひとつの時代が危機に瀕している。芸術においてなにがおもしろく、なにが独創的であるかを決める基準が失われ、いまではすべてが芸術家個人のコマーシャル戦略次第なのだと誰もがいう。たしかに、ある芸術上の手が尽きると、芸術界での成功はしばしば芸術家個人の押しの強さひとつにかかっているかのようにも思えてくる。なにを創りだすかではなく、作家のキャラクターそのものに関心が移っていく。芸術における女性や民族の表象、性的マイノリティーたちの芸術的表象をめぐる攻防がはじまり、社会的になんの特権もない芸術言語や芸術様式の純美学的な表象をめぐる闘争がつづけられている。

『全体芸術様式スターリン』 グロイス,ボリス 著 亀山郁夫、古賀義顕 訳
現代思潮新社 2000年