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2007/11/19 月曜日

ニューヨークはモダンアートの理念を盗んだのだ

Filed under: 引用 — nomad @ 14:42:31

<帝国>  グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性 二度の世界大戦において、米軍が二度ヨーロッパを救ったという軍事史と、政治的・文化的にヨーロッパを救ったという事態は並行している。財務・経済・軍事構造に基盤を置いたヨーロッパに対するアメリカのヘゲモニーは、一連の文化的・イデオロギー的活動をとおしてごく当然のものとみなされるようになった。たとえば、第二次世界大戦終盤の数年間に、芸術の中心的産地とモダンアートの理念がパリからニューヨークへとどのようにして移り変わったかを考えてみよう。セルジュ・ギルボーは、次のような魅力的な物語によって、いつ、いかにしてこのような移り変わりが生じたかを描き出してみせた。これは、パリのアートシーンが戦争とナチによる占領で混迷し、戦後世界におけるアメリカの指導的役割を促進するイデオロギー的キャンペーンのなかで、ジャクソン・ポロックやロバート・マザーウェルのようなニューヨークのアーティストによる抽象表現主義が、ヨーロッパの、もっと絞るならパリのモダニズムの自然な継続であり継承者であるとして確立された、その過程についての物語だ。すなわち、ニューヨークはモダンアートの理念を盗んだのだ。

アメリカのアートは、こうして、長期にわたる後退不可能な抽象への論理的な頂点を極めるものとして描き出された。アメリカ文化が国際モデルの地位にまで引き上げられるや、アメリカに特徴的なものの意味合いも変化を迫られた。つまりいまやアメリカに特徴的なものが、「西洋文化」総体を代表するものとなったのだ。このようにしてアメリカのアートは特定地域のアートから国際的アートへ、そして普遍的アートへ……と変容したのである。この点で、戦後アメリカ文化は、アメリカの強大な経済力や軍事力と同じ立場に置かれたのである。戦後アメリカ文化もまた、「自由」世界における民主主義的自由を守るという任務を負わされたのだ 。

芸術生産と、さらに重要な芸術批評の歴史におけるこの移行は、ヨーロッパの危機が当然かつ不可避の結果としてアメリカのグローバルなヘゲモニーをもたらした、と描き出す多面的なイデオロギー的操作のひとつの側面にすぎない。

アントニオ・ネグリ マイケル・ハート 『<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性 』以文社 2003年

2007/11/17 土曜日

飢えて死ぬ子供の前で文学は有効か

Filed under: 引用 — nomad @ 21:40:03

厳粛な綱渡り『ルモンド』紙は記事の冒頭に、<私は絶望していないし、いつわって旧作を否認するものではない>というサルトルの言葉をかかげている。すなわち『ルモンド』紙もおそらくサルトル自身も、そのあたりをインタビューの中心だと考えたわけであろう。しかし反響はそこからはずれたところに集中することになる。まず、ぼくはこのインタビュー記事を自由に要約しながらその全体のイメージを描きたい。 (more…)

2007/11/8 木曜日

おそらくここに、現代芸術の秘めている危険性の第一の理由がある

Filed under: 引用 — nomad @ 15:14:50

〈帝国〉とその彼方―アントニオ・ネグリ講演集上 (ちくま学芸文庫 ネ 2-1)戦争と平和のこのような世界的交配のなかにあって、「芸術意志」および美的行為の生産とは何を意味するのだろうか。経験の新しい態容がいずれの側に与することも拒んでいるとき、芸術はどこに帰属させるべきなのか。哀悼と幻滅の思考の貧弱なドラマトゥルギー〔作劇法〕に反対している現代の芸術家にとって、「戦争への戦争」、<戦争>に対抗する<闘争>とは何を意味するのか。美的なものを感受する能力がスペクタクルの時代の暴力全体をその狂気じみた持続性において生産する 無差別の表現にもとづくほかないのは、明らかである。そのときには、芸術家は絶対的な交配を通過せざるをえなくなる。芸術の自律性が生の潜勢力の他律性に触れた瞬間に深淵に落ちこんでしまう、現在へのこのような浸透を通過せざるをえなくなる。たんなる手段の領域に住みながら、単独的なものをそれがなんであれすべて受けいれることによって、芸術家は平和と戦争が走馬灯のように入れ替わる状態から脱却し、もろもろの事物の身体のうえに刻みこまれているそれらに共通の記号を浮き彫りにしはじめるのである。識別できないもののこの不透明な領域に身を投じることによって、芸術家は、偽りの社会的平和の感覚的証明の体系を破壊しつくしてしまうような<戦争>に対抗する<闘争>のなかで、自分のものでなくなってしまった政治の体制を自分のものに取り戻すのである。おそらくここに、現代芸術の秘めている危険性の第一の理由がある。現代芸術は、語ることのできるものと見ることのできるもの、現れ出ることと存在することと制作することとのあいだの関係の政治的な含意を規制しているもろもろのアイデンティティの分割に、直接自らを適用させているのだ。本当の意味で制作をおこなう、すなわち、アカデミズムによる媒介の外にあって制作するためには、それが転倒させるために暴露しようとしている当のものの生起のなかに、したがって「ニヒリズムの試練を生が通過する」(ジョルジョ・アガンベン)その内部と事後とに、身を置くことができなければならないのである。このトピックは、芸術作品の概念の拡大をつうじてのイメージのヘゲモニー的なメディア体制に対応したものである。そして、芸術家を他の職種から区別させているものが、(いまだ世界のかたちをなしていないもの)の表現から、感覚の質料へとカオスモスの雨を降らせることをつうじて、新しい可能な世界の構築を引き出そうとする努力にあることを教える。世界の美的カテゴリーとしての可能なものの経験は集合的な<いまだ世界のかたちをなしていないもの>から自らを物質的に引き抜くことをつうじて作品をつくることはしないというのが、芸術の現代的体制の特徴をなしているのである。作品をつくることをしないでいることこそが、あらゆる代理表象的なアイデンティティの外にあってわたしたちがしている単独性への手続き的な跳躍の可能性へと反転するのであってみれば、である。もはや共産主義的未来の美的先取りというかたちで表象することのできないようなこの立場を展示してみせること、戦争にたいして平和を過剰に露出させるなかで感覚的なものが崩れ落ちていく状況に自らをさらすこと。これこそは芸術の新しい方向である。芸術は、もはやなんらかの平和の存在の記憶に依拠することはできないでいる戦争にたいして異他的であろうとする共通の機械のなかにあって、自らの差異をたどっていくのである(自らの「行為」をひとつの「自由」として考えることの不可能性。平和は、もはや、世界のメディア的イメージに対抗する「戦争の最前線」における実存として以外には手にいれることはできないのだ。) (more…)

2007/11/7 水曜日

進行する限りにおいて完成され続ける純粋なる<過程>

Filed under: 引用 — nomad @ 18:59:04

アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)この世界においては、(たとえ、融資の構造によるものでないしかとしても)、学者や技術者や、それに芸術家さえ、のみならず科学と芸術そのもの自身が、極めて強力に既成主権に奉仕しているのであるが、こうした世界において、何故にかくも芸術や科学が頼りにされるのか。その理由はこうだ。芸術がそれ自身の偉大さやそれ自身の天才に到達するや否や、芸術は脱コード化や脱土地化の連鎖を創造するが、これらの連鎖は欲望する諸機械を設立し作動せしめるからである。絵画におけるヴェネチア派の例を取りあげよう。ヴェネチアに大きな自治を許した《原国家》の領域内で、ヴェネチアは最も強力な商業資本主義を発展させているが、この時には同時にその絵画は明らかにビザンチンのコードの中に紛れこんでいる。このコードにおいては、色や線までがひとつのシニファンに従属し、このシニファンが、ひとつの垂直の秩序として色や線の位階秩序を規定している。ところが、十五世紀の中ごろに、ヴェネチアの市販主義が衰退の最初の兆候に直面することになると、何ものかがこの絵画の中で粉微塵に砕け散ることになる。新しい世界が開かれ、別の芸術が現れるといっていいかもしれない。この別の芸術においては、種々の線は脱土地化し、種々の色は脱コード化して、これらの線や色はもはや、そのそれぞれ自身がそれぞれの間で相互に維持している関係をしか指示しないことになる。逃走〔漏出〕線あるいは突破線とともに、絵画の水平線的あるいは横断的な組織が生まれてくることになる。キリストの身体は、あらゆる方向にひきのばされて、あらゆる部分であらゆる仕方で機械として扱われ、器官なき充実身体の役割を演ずることになるが、この器官なき身体は、欲望の一切の諸機械がとりつき付着する場であり、芸術の喜びが爆発する<サド – マゾヒスト的>活動が行われる場なのである。いくたりかの<同性愛のキリスト>さえもが、現れる。種々の器官は、器官なき身体の直接の力となり、この身体の上で種々の流れを発するが、聖セバスチャンを射殺したかの無数の矢のような、数えきれないほどの切口が現れて、これらの流れを次々と切断しては、また切断し直して、別の種々の流れをうみだしてゆくことになる。種々の人物や種々の器官は、位階秩序をもった共同の備給に従ってコード化されることをやめるのだ。それぞれの人物や器官は、それ自身で価値のあるものとなり、それ自身の仕事につくことになる。こどものイエスが一方をみつめているときに、処女のマリアは他方に耳を傾ける。イエスは一切の欲望する子供たちに、マリアは一切の欲望する女たちにかかわりをもつことになる。瀆神の喜ばしい活動が、私企業化の一般化する事態のもとで拡がってゆく。チントレットのような画家は、世界の創造を長いレースとして描いているが、ここでは、《神》自身はこのレースの最後列にいて、右から左へと出発の合図を与えている。突然、十九世紀のものともいえるような、ロットの絵画があらわれてくる。もとより、こうした絵画の流れの脱コード化は、つまり欲望する諸機械を地平線に形成するこれらの分裂気質線は、古いコードの断片の中に再び戻されることになるか、でなければ新しいコードの中に、そして何よりもまず本来の意味での絵画の公理系の中に導かれるか、することになる。この絵画の公理系とは、種々の逃走〔漏出〕に対して柵をつくり、絵画全体が線と色との横断的諸関係に入る道を閉ざして、この絵画全体をアルカイックな土地や新しい土地の上に折り重ねる働きをするものである。(例えば、遠近法がそうである)。だから、たしかに、脱土地化の運動は、土地の裏側としてしか捉えられないということになる。このことは、たとえこの土地が、残余の、あるいは人工の、あるいは構造の土地であってさえ、そうなのである。しかし少なくとも、何ものかは生起したのだ。そしてそれが、コードを決壊させ、シニファンを破壊し、構造の下を通って流れを通過させ、欲望の極限において切断を行うというわけだ。つまり、ひとつの突破口があらわれたのだ。十九世紀が既に十五世紀のただ中に存在するというのでは十分ではない。何故なら、こんどは、十九世紀について同じようなことをいわなければならないであろうからである。また、こうなると、解放された奇妙な種々の流れを既に自分の下にもっていたビザンチンのコードについても、同じようなことをいわなければならなかったのだということにもなる。われわれは、既に画家のターナーについて、またかれの絵画について(つまり、ときには「未完成」と呼ばれてはいるが、じつは最も完成しているかれの絵画について)、このことをみてきた。天才が存在するや否や何かが起こるのだ。もはや、いかなる学派にも、いかなる時代にも属することなく、ひとつの突破口を開く何かが存在することになるのだ。──目標をもたない、<過程>としての芸術が。しかしそうしたものとして完成している芸術が。 (more…)

2007/11/6 火曜日

遊離した創造は嫌いだ

Filed under: 引用 — nomad @ 22:09:12

神経の秤・冥府の臍他の連中は作品を差出すがいい、私はここに私の精神以外のなにものをも示す気はないのだ。

生きるとは、もろもろの問を燃えあがらすことだ。

私は作品を生から遊離してあるものとは考えない。

私は遊離した創造は嫌いだ。私はまた、精神がおのれ自身から遊離してあるものだとも考えない。私の作品の一つ一つ、私自身のさまざまな面の一つ一つ、私の内なる魂の氷室の開花の一つ一つが、私に対して悪態をつく。

私は、わが内部に生じる狭窄や、わが生の理不尽な去勢について説明するために書く手紙の中にも、また私自身の外部にあって、惰性的なわが精神的なわが精神の妊娠と見えるエッセーの中にも、等しく私そのものを見出す。
私は精神が生の中になく、生が精神でないことに苦しむ。私は、器官にすぎぬ精神、解釈にすぎぬ精神、事物脅喝者にすぎぬ精神を、なんとかして精神そのものの中に入れようと苦心惨胆する。

この本を、私は生のまっただなかに宙ぶらりんにさせてやろう。私はこれが、外部の事物によって、そうだ、何よりもまず、あらゆるヤットコの跳躍や、来たるべきわが自我のすべてのまばたきによって、噛みつかれることを願う。
これらのページはすべて、精神の中を氷塊のように徘徊する。わが絶対の自由を許されよ。私は私自身のいずれの十秒をも区別することをみずからに禁じる。私は精神に局面というものを認めない。

文学と同様精神とも手を切らねばならぬ。私が言っているのは、精神と生とは、あらゆる度合いで伝達するということだ。私はねがわくば人びとを狼狽させるを作りたい。ひとつの開かれた扉であり、人々が決して行きたがらなかったはずのところへかれらを導く扉であり、つまり単純に現実に接している扉である本を。

かくてこれは、一冊の本のための単なる序文ではないし、さりとてたとえば、本の中にずらずら並ぶ詩篇でも、 不快のあらゆる激怒の列挙でもない。

これは、ひどく呑みそこねた一個の氷塊にほかならない。

アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍』現代思潮社 1971年

2007/11/5 月曜日

芸術論の可能性の枯渇の期日を新たに設定することに耐えなければならない

Filed under: 引用 — nomad @ 20:45:18

ラディカルな意志のスタイル現代の芸術家は二つの様式によって沈黙を擁護する──声高の様式と静かな様式と。

声高の様式は、『充満』と『真空』の不安定なアンチテーゼに関する機能である。充満についての感覚的、陶酔的、超言語的理解が脆弱であることは周知のことだ。充満は、わずか一瞬にして崩れ去り、否定的沈黙の真空の中に突入することができる。危険をあえて冒しているということを十分承知の上で(精神的嘔吐について、さらに狂気についての危険)、この種の沈黙の声高の擁護は、逆上した、一般化しすぎたものとなりやすい。それはまた、しばしば黙示録的であり、あらゆる黙示録的思考の侮辱に耐えなければならない。すなわち、終局を予言すること、その日が来るのを見、その日を生き延び、そしてさらに、意識の焼却、言語の決定的な汚染、芸術論の可能性の枯渇の期日を新たに設定することに耐えなければならない。 (more…)

2007/11/4 日曜日

新しい生を創造することができなければならない

Filed under: 引用 — nomad @ 23:15:14

<帝国>  グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性 対抗的である人びとは、みずからの人間的条件の局地的かつ個別的な制約から逃れながら、さらに新しい身体と新しい生を構築することをたえず試みなければならない。こうした試みは必然的に暴力的で野蛮な移行であるほかないが、しかし、それはヴォルター・ベンヤミンの言うように、能動的な野蛮である。「野蛮? そのとおりである。われわれは、ここで、野蛮という言葉に新しいポジティブな概念を導入しなければならない。経験の貧困に直面した野蛮人には、最初からやりなおしをするほかない。」新しい野蛮人は、「何ものをも持続的とは見ない。しかし、それゆえにこそかれは、いたるところに道が見える。他の人びとが壁や山岳につきあたるところでも、かれは道を見いだす。だが、いたるところに道が見えるので、彼自身はつねに岐路に立っている。いかなる瞬間といえども、つぎの瞬間がどうなるのか、分からない。既成のものを彼は瓦礫に返してしまうが、目的は瓦礫ではなくて、瓦礫の中を縫う道なのだ 。新しい野蛮人たちは肯定的な暴力をもって破壊を行い、自分自身の物質的な存在を介して新しい生の道筋を見つけ出すのである。 (more…)

2007/11/3 土曜日

こうした管理が革新や経済発展を阻害する

Filed under: 引用 — nomad @ 15:39:55

マルチチュード 下 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)二つ目の例は、破壊的な影響力をもつ政治的・経済的管理の形態を廃止するという提案だ。たとえばサイバネティクスやインターネットの領域では先に見たとおり、著作権という形でのアクセスや情報、アイディアに対する管理が日増しに創造力や革新を阻害している。またたびたび指摘したように、医療品や知識、遺伝物質、さらには生命 – 形態にいたる多種多様なものを管理する特許についての異議申し立ては、今や無数に存在する。 (more…)

2007/11/2 金曜日

美学のパラダイムに向けて漂流すべきなのです

Filed under: 引用 — nomad @ 0:16:11

カオスモーズ芸術のマッピングは常に、すべての社会の骨組みにとって本質的なエレメントでした。しかし専門化された組合体制が設置されてから、それらは付随的なもの、魂を補足するもの、脆弱な上部構造のようになり、一定の周期をおいて何度もその死を宣告されてきました。しかしラスコーの壁画から中世の大伽藍を経てソーホーにいたるまで、芸術におけるマッピングは、個体的・集団的な主体感を結晶させることに関し、死活を握る企ててあり続けています。 (more…)

2007/11/1 木曜日

そして民衆こそ最重要事項だ

Filed under: 引用 — nomad @ 16:50:23

千のプラトーわれわれは、地層化した環境から始めて、領土化したアレンジメントに到達した。同時に、カオスの諸力が環境によって振り分けられ、コード化され、コード変換を受けたところから始めて、大地の諸力がアレンジメントの中に集められるところまでたどりついた。次に領土的アレンジメントから相互的アレンジメントへと進み、脱領土化の線に沿ったアレンジメントの解放に到達した。それと同時に、集められた大地の諸力から、脱領土化した、あるいはむしろ脱領土化する宇宙の諸力にたどりついた。この最後の運動は、大地の「様相」であることをやめ、宇宙への「抜け道」になっている。パウル・クレーはそれをどのように描いているだろうか。そして、精密であるはずの操作を語るにあたって宇宙という大げさな言葉がつかわれるのはどうしてなのか。クレーは言う。「大地から飛び立つために、人は急激な力を行使する」、そして「重力に打ち勝つ遠心力の支配下に入ると、本当に大地から舞い上がっていくのだ」と。さらに言う。芸術家はまず自分の周囲を見つめるが、それは被造物の中に残った創造の痕跡をとらえ、所産物自然の中に残った能産的自然の痕跡をとらえるためだ。そして芸術家は「大地の境界」に腰をすえ、顕微鏡や結晶に、分子や原子や微粒子に関心をもつが、彼は科学的整合性を求めているわけではない。運動を求めているからそうするのだ。内在的運動だけを求めるのである。芸術家は心に思う。この世界は昔、今とは違う光景を呈していたし、これから先も、もっと違った光景を呈するであろう、それに、別の惑星に行けば、もっと違った光景が見られるのだ、と。芸術家は宇宙に向けておのれを開き、「作品」に宇宙の諸力を注ぎ入れようとする(さもなければ宇宙に向けての解放は単なる夢想にとどまり、大地の境界を広げるなど望むべくもない)。そのような作品を目指すなら、簡素で純粋このうえない、そしてほとんど児戯に近い手段が必要になる。だが、それと同時に民衆の力も必要だ。これこそまさに、いまもって欠けているものにほかならない。「われわれにはこの力が欠けている。われわれは民衆の支えを求めているのだ。われわれはバウハウスでそれを始めた。それ以上のことは出来ないのだ…… 」 (more…)