2007/11/17 土曜日

飢えて死ぬ子供の前で文学は有効か

Filed under: 引用 — nomad @ 21:40:03

厳粛な綱渡り『ルモンド』紙は記事の冒頭に、<私は絶望していないし、いつわって旧作を否認するものではない>というサルトルの言葉をかかげている。すなわち『ルモンド』紙もおそらくサルトル自身も、そのあたりをインタビューの中心だと考えたわけであろう。しかし反響はそこからはずれたところに集中することになる。まず、ぼくはこのインタビュー記事を自由に要約しながらその全体のイメージを描きたい。

・・・・・私は書くために生まれてきたと考えていた。自分の存在を正当化したくて、文学を絶対的なものとしていた。このノイローゼからぬけだすために三〇年もかかった。私に共産党との関係が、必要な視野をひらいてくれたとき、私は自伝を書いて、いかにして、ひとりの人間が、神聖化された文学から、実際行動へ移ることができるかを示したいと思った。それが知識人の実際行動にとどまるにしても。それは一九五四年のことだった。<言葉>の大部分はその年にかかれた。

・・・・・小説を書こうという熱望は、奇妙だし分裂してもいる。ボクシングのチャンピオンになろうとねがう青年は、現実を選ぶわけだが、作家が想像力の世界を選ぶことは、それと現実とのふたつを混同してしまうことだから。

<言葉>を読むとあなたが文学を選んだことを後悔しているという印象をうけるが、と質問されて、それは一九五四年の自分が、五〇年の夢のなかの生活から現実の新しく帰依したばかりだったからだろう。とサルトルは答える。

・・・・・しかし私はノイローゼによって実際行動に入る者もあるということは知っていたし、実際行動の困難も知らないわけではなかった。文学によってと同様、政治によっても、われわれが救われることはない。救済はどこにもない。絶対は絶対の観念をふくんでいるが、私から絶対は去っていたのだ。そして私には、なすべき数しれぬ仕事がのこされていた。それらのうちで文学が特別あつかいされる理由はなかった。私は自分の人生において、いまやなにをおこなっていいかわからない。と書いたが、それは、右のような意味であって、ボーボアールのように絶望の叫びをあげたのではない。私は幾らか行きすぎるほど楽観主義者であった。

<嘔吐>のサルトル的な世界はバラ色ではなかったが、あなたは世界をそのように暗い光のなかに見ることをやめたのか?という問いにサルトルは。いや世界は暗いままだ、と答える。

・・・・・しかし突然に私は形而上学的な悪は、ぜいたくというもの、二次的なものであって、疎外や飢えや搾取こそが真の悪なのだということを発見したのだった。あるソビエト市民は、コミュニズムの勝利の日、人間の有限性の悲劇がはじまる、といったが、私はまだそれを考えるべき時ではないと思う。私は社会的・経済的な病弊が治療されることを信じ、ねがっている。私は世界が変われば、物事はうまくゆきはじめると考える側の人間だ。私はベケットに感嘆するが、かれの改良をみとめないペシミズムとはまったく逆のところにいる。まず最初に人々は、その存在の条件を改良して、人間になることができなければならない。そのあとで普遍的な道徳が創造されうるのだ。まず人間の解放が第一である。

それでは、あなたの旧作を否定するのか、という問いに、サルトルはそういうことはないと答える。だからといって旧作が良いというのではないが、とサルトルは<嘔吐>を批判する。

・・・・・私は<嘔吐>のヒーローの病気の外にとどまっており、<嘔吐>を書くことで、文学を絶対とするノイローゼによって幸福をあたえられていた。私には現実の感覚がなかった。いまや私は現実を知っている。飢餓する子供のまえで、<嘔吐>は無力である。

どのような作品がそれにたいして有効なのか?という問いにサルトルは、それこそ正確に作家の問題だ、と答える。『レクスプレス』紙が二人の作家の反駁の掲載の際、このインタビュー記事から抽出する問題点も、この部分である。

・・・・・飢えた世界で文学が何を意味するか、道徳がそうでもあるように、文学もまた普遍的である必要がある。したがって作家が、すべての人間にむかって話しかけ、すべての人間によって読まれることを望むなら、かれは大多数の人間の側、飢えている二〇億の人間の側に立たなければならない。さもないと、かれは特権階級のために奉仕することになるし、同様に搾取者となることになる。

大江健三郎『厳粛な綱渡り』 文芸春秋 1965年

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