microsoftonlinestores.com buy windows 10 product key cheap windows 10 product-key Office Professional Plus 2016 Key

2016/12/21 水曜日

来る日も来る日も朝から晩まで、花岡、花岡といって彫り続ける新居さんの姿が今でも目に浮びます。一日一枚できればよいほうで、蜂起後の虐殺、拷問の絵では、ついに寝込んでしまうありさまでした

Filed under: 引用 — nomad @ 14:27:59

中国木刻論

石飛仁が劇団エリトゲをはじめたのは、強制連行事件総体を明らかにするためである。花岡反乱にしぼったのは一点突破するためである。一点突破するためのドリルに硬質のヤキをいれるために、エリトゲは日本最小のアジプロ劇団の方法を選んだ。
民衆的アジプロの方法として、エリトゲの活動は、中国紅軍が延安や新四軍根拠地から中国本土に発したパンフレット、新聞、各種ビラに刷り込まれた木版画に比肩するものに成長するだろう。
この二つの目に見えぬ糸があるように感じる。劇団エリトゲが背景に映写するスライドに、花岡事件の様子を刻んだ木版画がある。これは洛澤『花岡川の嵐』邦訳版に収録された十葉の木版画からとられたものである。この木版画に関して訳者立花祥介の解説にいわく。
「また挿画に使用した中国語版『花岡惨案』(中国・人民美術出版社・一九五六年刊)は、井口晃氏のご蔵書を利用させていただいたものである」その版画作者はわからなかった。たぶん中国人だろうと思っていた。版画に題名はないが、キャプションがあって、そのいくつかを紹介すると、
川の水を飲む中国人捕虜に後ろから日本人棒頭が棍棒をふるう図に「水路改修の激しい過重労働の上に、日本人補導員たちは過酷な虐待を中国人に加えた」。
山東省における労工狩りの図に、「日本国は国内の労働力不足を補うため、中国大陸で労働者、農民を狩り出し、俘虜とともに日本へ強制連行した」。
通訳任鳳岐殺害の図、「六月三十日の深夜、中山寮の中国人たちは、”抗日別働隊”を組織して蜂起、まず売国奴の” 漢奸”らを打倒した」。
獅子ヶ森の抵抗戦の図。「秋葉山に立てこもった蜂起軍は厳重な包囲網のなかで二日間、激烈に戦った。主な武器は大小の石ころであった」。
日本刀の鎮圧側に対し銃の台尻をふりあげて抵抗するは白兵戦の図。「衆寡黙せず、武器、食料も尽きて山頂でついに肉弾戦。英雄的な戦士は敵側の武器を奪って最後まで奮闘した」。
版画はすばらしくよい。学生時代、さねとう・けいじゅうの本で、抗日戦下の中国版画について読んだ記憶もあって(本の名を失念)、素朴だが、光と闇とによって主題をくっきりとらえる作風はあきらかに中国産とおもわれた。
そしてこの版画には多少の事実誤認があって、たとえば中国人蜂起者が立てこもったのが「秋葉山」となっているが、反乱者たちは「獅子ヶ森」を秋葉山とかんちがいしていたのである。そのことは訳者も指摘している。より詳しく言うと、かれらは脊梁山脈の一角たる秋葉山に逃げ込んで山岳ゲリラ戦を行う計画だったが、二百メートルほどの孤立した小高い獅子ヶ森を秋葉山とまちがえて立てこもったために、日本側に包囲されたのである。また、銃を奪取する計画はあったが、米軍捕虜収容所の開放に失敗し、そこにあった銃器を手に入れることはできなかった。それらのことは劇中で石飛仁は補足説明して芝居を続けている。
近年、中国人が刻んだものと思っていた木版が、日本人画家、新居公治、詩人牧大介、切り絵画家滝平二郎の手になるものであり、版木も日本に現存することが明らかにされた。
中国版『花岡惨案』は、昭和二十六年に三氏が出した版画詩集『花岡ものがたり』の翻訳だったのである。このことを報じた『大館新報』(昭和五十六年五月十二日号)を引用する。

“幻の版木”三十年目の問い
『花岡ものがたり』の取材は二十五年秋に始まった。敗戦の傷跡がまだ生々しい中、花岡事件が一行も報道されず、いまわしい事件とされて地元の人たちは口にもしなかったが、重い口から多くの証言を得た。
取材したのは、水戸市の画家で、鹿角市毛馬内出身の牧大介氏、七年前ガンで亡くなった水戸市の版画家・新居広治氏の二人、二ヶ月後、きり絵で知られる滝平二郎氏も参加している。”弾圧”も厳しかったらしく取材の方法は隠密だったようだ。が、牧氏らは旧制大館中学校に通うため共楽館と関係があり、この経験を生かして同級生たちにアタック、タブーに挑んだという。
三人はその後、横手市内の支持者宅にこもった。下絵は新居氏が描き、滝平氏が彫る。牧氏は文中の秋田弁をなおしたり、版木を東京で調達したり資金を集めた。約半年というもの、コッペパンとどぶろくの毎日だった。
版木はすぐに印刷できるように、サクラの板を二枚張り合わせ、活字の高さにしてある。版木の入手には、中国版画運動の父・魯迅と親交のあった内山完造氏の弟、内山嘉吉氏の力が大きかった。
詩集ができたのは二十六年五月。五十七枚の版画と詩を組み合わせ、横見開の体裁で一一〇ページ。中日友好協会編とあるだけで作者名は入っていない。表紙うらの歌も作者不詳だ。そのまま絶版となったが、五年後、中国で版画をそのまま入れて翻訳した「花岡惨案」が出版された。また四十一年、花岡・十瀬野公園に「日中不再戦友好碑」が建てられたのを機会に、四十六年、同碑を「護る会」によって完全復刻版が発行されている。(傍線・引用者)

この報道につづき、野添憲治らによる”幻の版木”発見のいきさつが報じられている。版木を持っていた新居広治氏が昭和四十九年、ガンで亡くなる前、宇都宮の画家、鈴木憲二氏にミカン箱に入れて預けたこと。新居氏死後、鈴木氏の手から水戸市の日本美術会会員岡野良平氏に托されていたもので、野添氏の問い合わせによって岡野宅で発見された。そして新復刻版と展示会が企画されていること。作者不詳の歌、”花岡節”は劇団わらび座主宰者原太郎氏の作曲したものであること。
俺が運命的な糸を感じたのは、『大館新聞』引用文中、傍線を附した内山嘉吉の箇所だ。魯迅の文芸活動のうち、映画、漫画、版画のしめる位置を見落としてはならない。これらはいずれも中国革命、抗日戦過程で大きな威力を発揮するのである。
現代中国版画の起点は、魯迅と内山完造の友情のうちに、完造の弟、嘉吉が魯迅主宰の一八芸社の若い美術家たちに木版画の実習講座をひらいたときにはじまっている。他の文献から引くと、「その頃、魯迅は内外の版画を苦労して集めていたので、彼のところには外国を含めて各地から貴重な版画がおくられてきた。荷物がつくたびに完造は珍しい版画を見せてもらった。」(小泉譲『魯迅と内山完造』、講談社一九七九年)。
一九三〇年十月四日と五日、上海北四川路の購買組合楼上、日語学校を展覧会場に、魯迅は内山完造の協力を得て、魯迅所蔵の約七十点の版画に、魯迅が日英中国語で注を書いて版画展覧会をひらいた。客は約四百人、ほとんどが日本人だったという。これが中国最初の版画展のようである。ただ、内山完造・奈良和夫『魯迅と木刻』(碑文出版、一九八一年)によるとその三月前の一九三〇年七月六日、「現代美術社展覧会」を魯迅は見にゆき、自分の所蔵していないソ連革命美術作品を閲覧し、一元寄付しているから、これを中国最初の版画展といっていいかもしれない。ただしそのソ連革命美術作品が、ビラ、宣伝文、版画等であることはわかっているが、どんなものが展示されたのかはわからない。
どちらを先に最初の版画展とするかということは大した問題ではないだろう。大事なのは、版画展の一年後に版画作りが始まったということであり、内山完造の弟、嘉吉の一九三一年頃の上海行きと、彼が一八芸社の美術家たちに教えたことである。嘉吉は、二科会系の彫刻家で、当時、成城学園小学校の美術教師だった。嘉吉が兄の完造夫妻と北部小学校教師に版画の手ほどきをしているのを見て、魯迅が「上海の美術学生に版画の作り方を教えてやってほしい」と言い、一九三一年八月一七日から一週間、魯迅主宰の一八芸社を中心に、講師が嘉吉、通訳は魯迅自身が担当して、一八芸社同人の野天夫、陳鉄耕、陳煙橋などをはじめとする十三人の画学生に教えたのがはじまりである。
「果たせるかな、この日こそ中国木刻運動の第一頁を飾る歴史的出発の日だったのである。そしてこの講習会の一ヶ月後に起こった九・一八事件(満州事変)、日中全面戦争そしてそれに続く中国解放戦争の中で果たした現代版画の大いなる役割とその発展は凄まじいものがあった。その最初の火つけ役をやったのが、当時全く無名の若き美術家内山嘉吉であり、魯迅の陰にあって絶えず協力をおしまなかった裏方役の内山完造という日本人であったことを重要に考えなかればならないのではないだろうか」(小泉・前掲書)
魯迅が日本の版画に注目していたことは、彼の浮世絵愛好ぶりからも推察できる。いわく。「日本の浮世絵には、これといった大きな題目などあったでしょうか。だがその芸術的価値は存在しているのです」(一九三五年二月四日付、李樺宛書簡、内山嘉吉『魯迅と木刻』より孫引き)さすが魯迅だ。浮世絵にないものは大きな主題だ。大きな主題とは階級闘争である。
魯迅、内山兄弟、一八芸社の若い美術家たちによってはじめられた木刻は、ドイツ版画、ソヴィエト版画の影響を受けて(吸収して)、急速に発展してゆく、その後の中国木版発展史は別テーマになるので省略しよう。なぜ魯迅は版画に注目したのか。
 第一に彼は、中国が版画の発祥の地であり、版画は中国に帰ってくるという民族芸術の復活を信じていた。
 第二に、楽しい。版画は彫ることも、刷ることも、見ることも、楽しい。
 第三に、平明であり、簡便であり、文盲の多い中国民衆にアピールするためによい。
国共内戦、抗日戦の時代、革命のジャーナリズムは写真製版の機械など持っていなかった。挿絵、スローガンの視覚化はもっぱら版画で行われた。この性格が中国現代版画の画風を決定したのである。
革命のジャーナリズムの創出――この性格は魯迅にあって、漫画、映画、版画の有効性の評価と、とりくみを決定している。漫画と版画は一体のものでもあり、四人組追放後の現代中国漫画、復活した『風刺と幽黙』誌などにも依然として一コマ絵が多いのも、版画的発想だと思われる。また魯迅は「連環図画」つまり木版による物語も擁護しており、これは劇画の価値を認めるの論の魁とも読めるものである。
それはそれとして、魯迅のその作風が内山嘉吉を介して、花岡にもあらわれたのである。『大館新報』記事のつたえるように、「版木の入手には――嘉吉氏の力が大きかった」だけではあるまい。嘉吉『魯迅と木刻』には直接『花岡ものがたり』のことは出てこないが、関連する記載がある。
「いま健在な人では滝平二郎氏がある。最近『切り絵』という新しい世界を拓き、子どもの絵本、新聞の家庭向けページやTVのタイトルバックなどに美しい画面を見せて、日本の大衆に親しまれているが、この人も農民版画家である。あまり話したことはないが、この人の版画も戦後ずっと農民を描きつづけて来られたようである。最近のこの人の『切り絵』は、中国の民間伝承芸術の一つ『剪紙』(きりがみ)を版画と統合させたようなもののようである。その切り絵が日本の大衆に親しまれている現在を基盤に、きっと大衆を立ち上がらせる作品に発展されるだろうと期待を持っている」(第一章三節「中国木刻画と日本の版画家たち」)
戦後、内山嘉吉は、無着成恭のやまびこ学校の版画を指導し、農民版画、民衆版画運動に積極的に投じているから、花岡事件の記録もよく知っていたにちがいない。
嘉吉―魯迅―八芸社―中国木刻運動―抗日戦下の版画―花岡事件―花岡事件の版画詩集の出版と嘉吉の尽力、と大きく回ってきた流れはこれでつかめたと思うが、さらに細部の事実が、『日中友好新聞』一九八一年八月二日号で明らかにされているので、ふれておこう。
これはもの言いからはじまっている。野添憲治が『花岡ものがたり』の版木を発見したことが報じられたのが五月十二日の『大館新聞』、その後、彼は秋田市の出版社無明舎と組んで、近々その復刻版と、東京での版画展をひらくことと、中国でも再出版の計画があることを七月七日の朝日、読売、毎日の各秋田県版に発表した。このことに日中友好協会の大田宣也事務局長が抗議した次第が『日中友好新聞』八月二日号に載っている。
「……『花岡ものがたり』の編集と版権は日中友好協会にあるにもかかわらず、野添、安倍両氏からは協会に事前に何の話もなく、新聞報道で初めて知り驚いています。
 鈴木氏の話のように『花岡ものがたり』は、故新居広治氏はじめ製作者が、侵略戦争の深い反省に立って、真の日中友好に役立つよう願って作られたものであり、協会は使用目的がこの立場に立ったものでなければならないと考えています。
日中友好協会は七月二十三日、野添、安倍両氏に対し、無断使用に対する抗議を表明、使用目的などを明らかにすることを求めた質問状を送りました。野添、安倍両氏が良識ある態度をとられることを希望します」
あまり気持ちのいい談話じゃないな。三十年も行方不明になっていた版木が出て来たところに、その発見者に向かって、おれんとこのものだから勝手に使うな、と言われてもこまるだろう。それはそれとして、版画家たちに仕事場を提供した鈴木義雄氏(花岡の地・日中不再戦友好碑をまもる会顧問)の話が、『花岡ものがたり』の成立事情をより詳しく伝えてくれる。

――一般に『花岡事件』といっていますが、なぜ「花岡ものがたり」としたのですか。
鈴木 それは、この惨事を目撃した多くの人々に、勇気をもってもらいたかったからです。一九五〇年から遺骨の収集が始まり、収集作業に参加する人が広がっていきました。遺骨をいとおしんで、故国に送り届けてくれた善意の人々に、人間への信頼をもっていただくために、ルポルタージュと創作との中間をとることが適切と考えたのです。
(中略)
私たちが出版をいそいだのは、軍部や鹿島組が、証拠いん滅に慌てて動きはじめたからです。ですから出版は時間とのせり合いでした。戦時中この虐殺を防げなかった日本人としての良心と悔いをこめて、遺骨収集とその中国への送還の大事業にとりかかりました。戦争の風化を企てる支配層への怒りが多くの人びとをとらえました。
朝鮮人労働者をはじめ失対労働者――みんな戦争犠牲者でした――が、遺骨の完全返還を求めて立ちあがりました。会社はダムをつくり、証拠をいん滅しようとする、私たちは遺骨を収集する、会社は形ばかりの慰霊碑を建てる、私たちは日中不再戦友好碑を建てる、会社は共楽館をこわして体育館を、私たちは共楽館跡地に後世に残す碑文をそえた記念碑を建てる、激しい、戦争か平和かのつばぜり合いが演じられたのです。

これはそうなのである。戦後、『軍部』とあるのは、旧軍人たちのことだが、中山寮はダムに没し、「形ばかりの慰霊塔」はコンクリート製のもので、鹿島建設はいちばん安い材料を使ったということがありありとしており、拷問のあった共楽館(映画、演劇の施設だった)は体育館になっている。企業、役人たちの証拠いん滅作業に対して民衆の側は立ちおくれている。この問題は石飛仁の展開に待つが、何点かを走り書いて問題提起する。
①強制連行されて日本国内で働かされた中国人俘虜のうち、生存者は日本敗戦後の一年以内に祖国に帰り、遺骨は一九五〇年からはじまった収集作業によって還った。それでおわりだ。
②賠償がない。労賃さえ払われていない。
③企業、国家検閲による証拠いん滅作業の実態もあきらかにされていない。『同時代批評』十三号論文で石飛仁が指摘したように、敗戦翌年一九四六年度の予算編成が鍵なのだ。
④予算編成にあたって、各企業が提出した強制連行とその労働状態をまとめた文書、いわゆる「外務省報告書」は、現存するのに、その公開を迫った野党がない。
⑤帰国した中国人たちのその後がまるで知られていない。劉連仁が山東省の人民公社に元気で働いていること、『花岡川の嵐』の作者洛澤が現存すること等を例外にして、他はわからない。帰国後、国共内戦にぶつかり、海南島で戦死した人々がいるようである。これは日本で調査するのは無理だが。
⑥花岡事件だけが極東軍事裁判でとりあげられ、木曽谷事件と結合しなかった。検事側は木曽谷事件も調査し、中国人証人も日本にとどまったのであるが、なぜか木曽谷事件および他の事業所で行われた戦争犯罪はとりあげられなかった。
⑦日本に残った花岡、木曽谷の数少ない中国人証人と日本人左翼の交流はなかった。
⑧強制連行された中国人、朝鮮人、台湾人の協働作業は、遺骨収集や闇市での出会いはあったが、それらは被害者当人たちの当然の交流であって、それを組織的・全国的に仲介する日本人グループはなかった。
⑨被害者と加害者日本人の対決はもっぱら被害者当人の努力によって行われ、日本の左翼が自己の責任で介在したケースはないはずである。
⑩直接の加害者、下手人の実存も切開されることなく、戦後過程で野ざらしである。
いま走り書いた諸点は、ことごとく日本問題である。ぜんぜん中国問題ではない。それはもっぱら日本側の責任である。
この中で秋田県花岡の人々がもっとも先進的であり、自分たちの生きかたとして『花岡ものがたり』をうんだことは特筆されるべきことである。その花岡においてさえ、遺骨収集活動は戦後五年を経た一九五〇年にはじまっており、中華人民共和国成立後にはじめられたということは、この問題にたいする日本人のおくれをしめしている。遅れたが、しかし三十年前にはじまったのであって、草の墓標がコンクリートで蓋をされた現在でも、一センチずつ、進めていくべきテーマだ。一センチ進むための一ミリが石飛仁のエリトゲである。全体は、そうだなあ、五万華里の長征くらいあって、そのなかの一ミリ。木刻のディティールにもどろう。

――木版画にしたのは……。
鈴木 すでにその頃、中国では大衆運動の出版物に版画が使われ、日本の版画家との交流が行われ、ヨーロッパの版画、エッチングなどにもつながる気運になっており、新居広治氏がその条件をぴったり備えていました。これを企画したK・М氏案では「押仁太」と称する三人組の共同作業との話もありましたが、三人の個性ある画家(新居氏、滝平二郎氏、牧大介氏)を一緒にするのはもったいないということで、新居氏一人にしぼってお願いしました。
新居さんは、このむずかしい問題にとりくむこととなって、花岡―県北の取材を終えて、いよいよ製作は県南の横手の私の家ですることになりました。
――新居さんの製作にかけられた情熱は大変なものと聞いていますが……
鈴木 そうです。私たち夫婦と私の母は、私の家で制作することになったことで大変感激して、家で一番明るい南側に製作室を提供し、寝室も別にして、食事も米のごはんを三度さしあげ、晩酌も欠かさないように母は気をつかっていました。先般、秋田のある新聞で(注――『大館日報』をさす)、私の家でコッペパンとドブロクで合宿したように紹介してありますが、決してそんなことはありません。この機会に新居さんのご家族のみなさんに弁明させてもらいます。その頃、滝平さんも時々尋ねてくれたように思います。版木も桜の最上のものを使いました。
来る日も来る日も朝から晩まで、花岡、花岡といって彫り続ける新居さんの姿が今でも目に浮びます。一日一枚できればよいほうで、蜂起後の虐殺、拷問の絵では、ついに寝込んでしまうありさまでした。新居さんはデッサン力のある人で、版画は力作です。スライドで大写しにした共楽館内での拷問の場をみましたが、表情のすさまじさには改めて圧倒されました。

これはいい話だと思う。版画づくりが、主として新居広治の努力によって行われたこと、調査し、取材し、製作するうちに事件が新居広治にのりうつってくるさまのなかに、当時の人々の活動が思い描かれて感銘する。『花岡ものがたり』の原本を僕は見たことはないのだが、同紙に写真版で挿入されているこの本の「あとがき」をぬきだしておこう。

花岡事件は、軍国主義日本の罪悪のかたまりのようなものである。これをてってい的に追求し、えぐりとることは古い日本の腐ったカスをなくして、日本と中国の本当の友好をきずくいしずえである。これをあいまいにのこしておくことは、軍国主義のばい菌をつちかっておくようなもので、ふたたびおそろしい戦争をひきおこすもととなる。
この絵ものがたりは、平和を愛し、日本を愛し、日中関係の永遠の友好をながう人々によって、一大国民運動をおこすためにつくられた。あらゆる困難をおかして、闇にほうむられようとする事件の真相について、調査に調査をかさね、これを、ほんとうにいきいきした芸術作品として表現するために、討論し、修正し、それこそ血の出るような努力がつみかさねられた。この作品は、在日家郷四万と日本の民衆のあいだにおこされた日中友好運動の力にささえられ、また、現地秋田の鉱山、山林労働者、農民及び民主的な団体とその運動に援助されつつ、友好運動者、画家、詩人、文学者、音楽家その他多くの人々の集団制作としてうまれたものである。これは日本の芸術運動の上に、あたらしい方向をきりひらいたものとして、芸術史の一頁をかざるものであろう。
この困難な、画期的な事業を遂行された関係者各位に感謝するとともに、読者の一人一人が日本のすみずみまで普及する一大国民運動に参加されることを期待してやまない。
一九五一・五・三〇 日本中国友好協会文化部

魯迅が提唱した連環図画がまさに『花岡ものがたり』に結実したことは疑えないものと思われる。その運動の現在的展開として、エリトゲ運動が存在することを俺は感じる。『大館新聞』『日中友好新聞』の両紙記事、『花岡ものがたり』あとがきの宣言的文章およびさきに引用した内山嘉吉論文をつきあわせたときに浮かびあがってくるものの一つは魯迅―嘉吉にはじまる中国版画運動が、二十年かけてふたたび嘉吉を介して、民衆的メディアとして『花岡ものがたり』に実現したということである。それからさらに二十年、石飛仁の劇団エリトゲに。あと三点補足しよう。
第一に新居広治の仕事、一九八〇年九月、水戸市の京成百貨店で新居広治遺作展がひらかれ、目録に、この美術家の画歴が紹介されている。一九一一(明44)年、東京生。一九二九年、青山学院中等部卒業後、岡田三郎助、前田寛治、牧野虎雄に師事して油絵を習得。一九三一年、プロレタリア美術家同盟に所属。一九三九年、尾崎三郎らと「日本美術家連盟」を創立したが、軍国主義的傾向に反対して脱会。一九四五年九月、海軍より復員後「人民美術会」を創立。入江弘、赤松俊子らと「民主主義美術界」を創設。一九四六〜七年、戦後初の高萩炭鉱労組の生産管理闘争の木版画シリーズを制作。一九五〇年、鈴木賢二、小口一郎、飯野農夫也、滝平二郎らの「版画運動協会」に参加、本格的に版画創作をはじめる。メキシコ、アメリカ、中国、ソ連、チェコ、デンマーク、東独などの日本版画展に出品。この年、『日立物語』『常東物語』の制作に参加。そして一九五一年、『花岡ものがたり』。一九五六年、中国で『花岡惨案』として再刊。一九五八年、連環図画集『水兵物語』完成。一九六四年、東独、キューバ、ルーマニアの日本版画展に出品、日中版画交流展に出品。一九七〇年、東独の世界版画ビエンナーレに招待出品し受賞。一九七二年、日本傑作絵本シリーズ『でらだぼう』(斎藤隆介作)版画イラスト制作。一九七四年九月十一日、東大附属病院で死去。六十三歳。
これでみられるとおり、彼は『花岡ものがたり』以前に、炭鉱夫の闘争を描いた木版画シリーズや、『常東物語』『日立物語』等の連環図画集を制作しているのである。
第二に魯迅の連環図画論。魯迅の基本的態度は「革命に役立つ木刻の創作とそれらを人民の中に普及させること」(内山嘉吉)である。蘇汶ら高踏派が連環図画に対して「確実に、連環図画はトルストイを生み出すことはできないし、フローベルを生み出すことはできない」と主張したことに対し、魯迅は批判をかえしていわく。
「左翼作家はいかにも高尚なものではない。連環図画、唱本は、しかし蘇汶先生が断定したほど見込みのないものでもない。左翼もトルストイ、フローベルは要る。ただ『将来に属する(彼らは現在は要らないからだ)ものの創造に努力する』トルストイやフローベルは要らぬ。この二人は、みな現在のために書いた人々だ」(内山嘉吉、前掲書より)
「魯迅が連環図画を弁護していたとき、茅盾も『連環図画小説』を発表、連環図画という形式を巧妙に応用すれば、必ずや大衆文化にとって有力な作品を生み出すであろう、そうなれば、絵、文章の両面にわたって『芸術品』の域に達することができると主張していることは注目してよい」(山嘉吉、前掲書)
第三に、五木寛之の小説『デラシネの旗』には、一九六八年パリの学生革命時、学生たちがポスター、ビラ、パンフにしきりに石版画を制作したことが描かれている。木版画、石版画、連環図画などは民衆的メディアとしてすぐれたものである。エリトゲに美術家の参加を希望する。

本年(一九八五)六月三十日、花岡事件四〇周年目に、秋田県大館市が「平和祈念事業」を主催することを決定した。「本年六月三〇日に花岡事件の四〇周年を迎えるにあたり、悲惨な事件であった事実は事実として認め、ここに殉難者の霊を慰めると共に、この事件を乗り越えて、広く世界の平和を希求し……(中略)西の広島、南の長崎の平和祈念運動とは原因の発生は異なるにしても、北の平和祈念都市大館市を全国的、世界的にアピールし、平和の輪を広げていきたい」(大館市平和祈念事業施行〈案〉概要)
大館市が平和都市宣言を行うのである。広島や長崎と「原因の発生は異なるにしても」、すなわち加害者としての都市だったということを明記して平和都市宣言を発することはこの市の見識である。
これにエリトゲは参加する。芝居の出前だ。劉智渠、李振平、宮耀光三氏の花岡行きも実現する。劉、李両氏が花岡に行くことははじめてであり、両氏と宮耀光氏が会うのも、極東軍事裁判以来、最初である。塚越正男氏も参加し、山東省で人狩作戦に参加した当事者兵士が、劉氏たちと会うのもこれが最初である。一センチ、前進することができるだろう。

『平民芸術論』 平岡正明 1993年11月15日 三一書房刊

2015/4/6 月曜日

そんな話し方をするのは、われわれのブルジョア的・実存主義的ロマンチシズムにすぎない

Filed under: 引用 — nomad @ 18:21:29

indexところで、グラフィティの革命的本質を骨抜きにしようとする二種類の対応(警察の弾圧は別にして)を分析すれば、グラフィティとはいったい何なのかがよくわかるはずだ。
(一)グラフィティを芸術として認める立場。――ジェイ・ジェイコックス、「抽象的表現主義の千年王国待望的・コミューン指向的かつ非エリート的で素朴な形態」。あるいはまた、「地下鉄の電車がうなり声をあげてつぎつぎと駅を走り抜ける。まるで何人ものジャクソン・ポロックが、芸術史の回廊を、叫び声をあげながら駆けまわるように」。こうして「グラフィティ・アーティスト」や若者の創造する「民衆芸術の噴出」が話題となる。「これは七〇年代を特徴づける重要な運動のひとつとなるだろう」等々。変わりばえのしない審美的解釈だが、これこそは、現代の支配的文化形態そのものである。
(二)自分のアイデンティティーや個人的自由やノン・コンフォルミスムの主張としてグラフィティを解釈する立場(これがいちばん好意的な解釈だ)。「非人間的な環境のなかでも破壊し得ない個人の生きざま」(ミツィ・カンリフ、『ニューヨーク・タイムス』紙)。要するに、個人を抹殺する大都市での欲求不満というわれわれの感情から生まれたブルジョワ・ヒューマニズム的解釈である。またしてもカンリフ――「それは語る〔グラフィティは語る〕、おれはいる、生きている、おれは現実だ、おれはここに生きた。それは語る、キキ、デューク、マイク、それにジーノは生きている、やつは元気で、ニューヨークに住んでいる、と」。なるほど結構なことだ。われわれはみなかけがえのない、だが理解されない存在なのに、都市によって粉砕されてしまったというのだ。しかし「それ」〔グラフィティ〕は、そんな話し方はしない。そんな話し方をするのは、われわれのブルジョア的・実存主義的ロマンチシズムにすぎない。ところが、〔グラフィティの作者である〕黒人の若者たちは、守るべきパーソナリティなどもちあわせてはいない。彼らは、なによりもまず、共同体そのものを守ろうとする。だから、彼らの反逆は、ブルジョア的アイデンティティーと匿名性にたいする異議申し立てだ。クール コーク スーパートラット スネーク ソーダ バージン――〔カスター将軍を倒したあのインデアンの〕スー族風のこの連禱、匿名性をひっくりかえすこの呪文、白人世界の首都の真只中で象徴的爆発をくりかえすこの変名の響きに、今こそ耳を傾ける必要があるのだ。

『象徴交換と死』 ジャン・ボードリヤール 今村仁司・塚原史 訳 筑摩書房 1982

こうして、今や芸術は死んだ

Filed under: 引用 — nomad @ 17:21:55

index 芸術の歴史のごくはじめの頃から、芸術作品は、芸術についてのさまざまな記号の操作として、その内部で二重化される。芸術のもつ重層的表意作用(「記号表現のアカデミズム」とレヴィ=ストロースならいうだろうが)、じっさいに、作品に記号としてのフォルムを与えるのだ。このときから、芸術は無限の再生産〔=複製〕の段階に入る。芸術の内部で二重化されるものはすべて、たとえ日常的な現実が平凡なものであっても、ただちに芸術の記号に補足され、その結果、美的なものとなる。生産についても同じことで、今日では生産が、この美的二重化の段階、つまり、生産が、あらゆる内容と合目的性を追放して、いわば抽象的になり、その形象性を失う段階に入ったといってよい。この段階の生産は、純粋な形態の生産であって、芸術と同じく、無限の合目的性という価値を受けとるのである。こうなれば、芸術と産業が、お互いの記号を交換しあうことも可能になる。機械はもはやひとつの記号にすぎない以上、芸術は芸術的であることを止めずに、複製のための機械となることができる(アンディー・ウォーホール)。そして、生産の方はあらゆる社会的合目的性を失い、ついには、威信表示的、誇張的、美的等々の記号(巨大な工業コンビナートや高さ400メートルの超高層ビルやGNPを表す神秘的な数字など)にまで高まることができる。

こうして、今や芸術はいたるところに存在する。というのも、人工的なものが現実の中心を占めるようになったのだから。こうして、今や芸術は死んだ。というのも、芸術の批判的超越性が姿を消したばかりでなく、現実自体が、その構造性そのものにつきまとう一種の美学にどっぷりとつかってしまい、現実のイメージにすぎないものと混同されてしまったのだから。現実が現実としての力を発揮する時間さえ失われてしまった。もはや、事実は小説より奇なり、というわけにはいかない。現実は、一切の夢を、それが夢としての効果をもたないうちにとりこんでしまう。偽物もつくられず、昇華も不可能な、これらの大量生産される記号、反復されることによってしか意味をもたない記号の、精神分裂的な眩暈があるばかりだーーこれらの記号のおこなうシミュレーションの対象となる現実はどこにあるのか、誰にもわかりはしない。記号は、もはやなにも抑圧さえしない(もっとも、そのために、お望みならシミュレーションが精神病の領域にまで入りこむのだが)。ごく基本的な過程さえ、ここでは廃絶されてしまっている。コンピュータ的二進法のクールな世界が、隠喩と換喩の世界を吸収しているわけだ。シミュレーションの原則が、〔フロイトの〕現実原則と快感原則を打ち破ったのである。

『象徴交換と死』 ジャン・ボードリヤール 今村仁司・塚原史 訳 筑摩書房 1982

2014/5/3 土曜日

現代に持ち込まれた中世の暗黒。白日の下に展開される地獄図は、感傷を捨てた純粋な画家の目から眺めれば、ボッシュが描きボードレールが歌いあげた詩の世界にも似て、凄まじくもまた美しい光景であった

Filed under: 引用 — nomad @ 2:55:43

初年兵哀歌

浜田知明

 昭和九年(一九三四年)に私は東京美術学校油画科に入学し、昭和十四年(一九三九年)に卒業した。われわれの世代は大正デモクラシーなるものを知らない。しかし昭和九年から十四年という時期は、戦前の日本経済が最も活況を呈した時であり、やがてくる戦争への不安をはらみながらも頽廃のムードを秘めて平和をむさぼっていた時から、二・二六事件や中華事変の勃発を挟んで、日本が急速度に軍国化へ傾斜しはじめるきわめて変化に富んだ時期にあたっている。事変勃発と同時に召集された親友Kが戦死し、卒業を真近に控えた頃、左翼的な思想をもつという理由で親しい友人の幾人かが警察へひかれていった。数年後に学生生活を送った人たちの多くが、軍国主義一色に染め上げられ、あるいは強制された時代に育ったとするならば、われわれは恵まれた学生時代を送ったということができるかもしれない。
 当時の美術学生の関心は、第一次大戦と第二次対戦の間の平和の谷間に花咲いた、第一次エコール・ド・パリにあったといえるだろうと思う。しかしヨーロッパにもようやく戦雲濃く、スペインの内乱が起り、ダリが「内乱の予感」(一九三六)を、ピカソが「ゲルニカ」(一九三七)を描くことになる。
 私の求める絵画が単なる人物や風景の写生画でないことだけは、はっきりと分かっていた。しかしこれからどのような作品を描くかはまだ模索しはじめたばかりであり、果たして自分が作家としてこれからの美術界に処していくことができるかさえ分からぬ不安を抱きながら、昭和十四年の冬に現役兵として入隊した。
 入隊した以降のことについては私は他の場所で書き、あるいは喋ったことがあるが、誤解のないように言っておけば、私は決して勇ましい反戦の闘士でもなければ、反軍の闘士でもなかった。もっともその当時、明らさまに反戦や反軍を意思表示したならば、直ちに軍法会議に引き出され、刑務所に放りこまれるか、その生命も保証されぬ時代であった。
 私は本来人間は基本的に平等であるべきものだと信じていた。しかるにこの軍隊という社会は、1つ星の初年兵を底辺としてピラミッド状に階級があり、その階級差と年次とを厳格に守ることによって秩序が維持されていた。旧日本軍隊のやり切れなさは、戦場における生命の危機や肉体的な苦痛よりは、内務班や内務班の延長上にある戦場での生活において、戦闘行為遂行に必要な制度として設けられた階級の私的な悪用からくる不条理にあった。
 戦地に一歩足を踏み入れた時、そこで行われていることが大東亜共栄圏建設のための聖戦という美名といかに裏腹なものであり、日本国民の福祉のために行われているはずの戦争が、実は日本を支配しているごく一部の人達のためのものであるらしいことを私は知った。
 国体について、軍について、上官について、一切の批判は許されなかった。絶対服従と事あるごとに加えられる不当な私的制裁の下で生き抜くために、兵隊たちは要領よく立ち回ることを覚え、一人の人間から一箇の歯車に転化していった。不条理と矛盾の渦巻く中で、それでもモノを考えることを止められなかったものは、どのような生き方を選べばよかったのであろうか。
 何一つ明るい希望はなかった。いつ果てるとも知れぬ戦争と、納得できぬ戦争目的と、抑圧された自由の屈辱から、自殺への誘惑が間歇的に自分を襲った。
 軍隊内部の不愉快さに比べ、華北山西省の荒涼たる風景は私を魅了した。黄土地帯の厚味のある大地は果てしなく広がり、地平を遮る台地上の塔に、行軍に疲れた心は和んだ。黄河は悠々として流れ、楊柳の芽ぶく時、人物を背中に載せた驢馬の姿は、まさに一幅の絵であった。県城の城壁が深々と黒い陰を落とし、広野が夜の帷に包まれると、赤みを帯びた巨大な満月が東の空にのぼった。暑さに喘ぎ、雨に濡れ、汗にまみれ、埃にまみれ、背骨に食い入る装備の重さに堪えながら、馬を索き、砲車を軋ませて大部隊が通り過ぎた。多くの人が死に、馬が斃れ、庭先には家具類が散乱し、民家からは煙が上がった。やがて死体は張り裂けんばかりにふくれ、傷口には蛆虫がわき、腐肉を求めて鳥が舞い、野犬が彷徨した。
 現代に持ち込まれた中世の暗黒。白日の下に展開される地獄図は、感傷を捨てた純粋な画家の目から眺めれば、ボッシュが描きボードレールが歌いあげた詩の世界にも似て、凄まじくもまた美しい光景であった。
 いずれにせよ日本の敗戦によって、私はようやくにして軍隊生活から解放されて自分のアトリエに戻ることができたが、既に画風の確立していた既成の作家たちとちがい、六年間の空白を背負って学生時代と繋がっているにすぎなかった。
 入隊前の私は、おぼろげながらモンドリアンやアルプのような仕事に進むのではあるまいかとも考えていたことがある。ギリギリまで計算されたモンドリアンの清潔な画面や、その全く逆の立場から天衣無縫に生み出された「人体凝結」など、アルプの一連の彫刻。しかし、今しがた戦場から離れてきたばかりの私にとっては、この目で目撃した戦場の生々しい光景や、軍隊から受けた心の疼きを表現するための手法としては適当ではなかった。
 モチーフは決定している。問題は表現の方法だけであった。単なる戦場の表面的な描写ではよく戦争を描き得たということにはならないし、人間心理の深層にまで照明をあてることはできない。あまりに抽象化することは見る人に描かれたモチーフへの手がかりを失わせ、作家の意図を曖昧にしてしまうおそれがある。時代の思潮に敏感であろうとするような、新しいとか古いとかいうような形式的な問題に拘泥せず、是が非でも訴えたいものだけを画面に残し、他の一切を切り捨てた。色彩を捨て、油絵具という材料を捨て、そして白黒の銅版を選んだ。ひたすらに自分に忠実であろうとすることだけが私の支えであった。戦場と軍隊をモチーフとして若干の作品が生まれた。私の非力が、戦野で繰広げられた壮大なロマンや、軍隊の軛の下で流された初年兵の涙を、充分に描きえたとは思わない。しかしいずれにしても、この戦争に生き残ったものとして、それは私がどうしても描かずにはいられなかったところのものである。
(版画家)

東京国立近代美術館ニュース『現代の眼』207号(一九七二年二月号)5ページ
〈特集〉私の戦後美術

『美術家たちの証言』 美術出版社 二〇一二年

2014/2/26 水曜日

まだ芸術になっていないなにかが見つかると、すぐさまそれはありがたくもこれぞ芸術と宣告された。非芸術であることが芸術の基準になったのだ

Filed under: 引用 — nomad @ 23:57:33

全体芸術様式スターリン 現代世界のあらゆるユートピアは芸術を源としている。爾来、芸術作品は、一貫した調和的な世界、悲劇的な世界、高められた世界、自由な洗練された世界とはどのようなものかを示すサンプルだった。こうした伝統的な理想を拒む今日のポストモダン芸術もまた新しい世界を、いかなる言語も様式も芸術において同等の代表権をもちうる多元的民主的世界を企図している。ただし芸術は、貨幣や他の商品と交換される商品になることだけはけっして望まない。いいかえれば芸術は、現在のあるがままの世界と、そこで芸術がじっさいに占めている位置とを承認したくないのだ。芸術と世界のあいだのこの断絶は世界へのプロテストを生みだし、世界を芸術の枠内にとどまらずじっさいに現実においてつくりかえようとする欲望を生みだすことになる。
 今世紀初頭のロシア・アヴァンギャルドは生そのものを変えてしまおうとするもっともラディカルな試みのひとつだった。生を変えるためにロシア・アヴァンギャルドは、周知のように、世界を説明するのではなく、やはり世界を変えようとしていたマルクス主義と連帯した。さらに当のマルクス主義もまた、芸術的理想を生活のなかで実現することをめざしていたドイツ・ロマン主義を源としていた。したがってどの労働者も、事物と自分の生活をまるごと創りだす自由な創造者すなわち芸術家とならねばならない。
 この目的を達成するために、なによりもまず、自由な創造という目的に社会生活の全体を聴き従わせることが課題となった。各人が働き、新世界の創造者とならねばならない。「働かざる者食うべからず」である。またそのためには、生産ではなく消費を日々の課題としていた支配者階級は根絶されねばならなかった。まさにそれによって芸術と創造は、消費者とその偏狭な嗜好から、市場から、貨幣の権力から開放される。またこうして芸術的な営みとして了解された労働は自由に発展していくための無限の可能性を手にする。ロシア・アヴァンギャルドも、またその一部であるソヴィエト・アヴァンギャルドも、芸術は作者の個性を反映し、作家によって価値を賦与される、と信じていた。だからこそ消費者よりも作家を上に置くことになっていたのである。貴族の位置を占めるべきなのはフレーブニコフのいう「創族」なのだ。
 しかしじっさいには、誰にも買われず欲しがられず、消費者をもたない芸術はその価値を失った。ソヴィエト社会の経済的破綻の原因はここにある。ソヴィエト社会の建設者たちは、社会全体を新世界の建設という課題に従属させることで社会に無限のダイナミズムを与えることができると考えたが、消費が消滅すると同時に生産のための指針も消え失せたため、じっさいに社会はその成長を止めた。消費と交換の圏域から排除された芸術は価値を失い、誰にも必要のないがらくたの山と化した。
 新しさの創出としての芸術そのものの根本にあるのは交換という操作である。芸術における新しさとは、芸術家が芸術の伝統を非芸術と交換するときに――たとえばマレーヴィッチのように伝統的な造形絵画を「黒い正方形」と交換するときに――生まれる。交換をこうして操作するには、芸術における価値のヒエラルキーや美術館という制度、芸術市場、芸術と非芸術の区別が前提となる。社会的に保障された、文化的価値の自律域を一掃し、現実と芸術とを同一視する単一の芸術プロジェクトをもってそれに代えようとすれば、それによって芸術は死に、それと同時に現実は死ぬ。芸術と非芸術の区別がなくなるのだから、すくなくとも創造はもはや不可能となる。現実全体が芸術となり美術館となり、ここではもはやなにも変えることができないのだ。スターリン時代のソヴィエト芸術が全体的な反復だったのはそのためであるといってよい。ソヴィエトの生活全体がスターリンと党を作者とする唯一の芸術作品として了解されていたため、芸術と現実とのあいだの革新的な交換は不可能となり、新しさは消失し、過去の永劫回帰だけが残された。
 もちろんスターリンのプロジェクトは世界全体を捉えることはできなかった。スターリンのプロジェクトの外には十分に現実の領域が残った。そのため、スターリン以降のロシアにはきわめて集約的な芸術実践が生まれ、それまで非芸術とみなされていたすべてのもの、卑猥語、重苦しく単調な日常生活、宗教的エクスタシー。エロティシズム、ロシアの民族主義的伝統、そして西欧の「ポップな」流行を新たな芸術的価値の領域へとずらしこんでいった。ロシアにとってそれはみずからの根幹を揺るがす事件だった。西欧にとってはそれはたんなる反復でしかなかった。ロシアの芸術が西欧においていちじるしい困難を経験したのはそのせいであり、また現に今もこの困難を経験しているのである。この困難はけっして無視することができない、というのもロシアの芸術が交換の圏域、特に芸術市場の圏域に再統合されるということはつまり、芸術がいかにつくられ機能するかに関する世界基準(すなわち西欧基準)にロシア芸術が照らし合わされることを意味するからだ。
 芸術がある意味で生活を独裁することの是非をめぐってソ連で議論が戦わされているとき、西欧でもやはり(しかし別のかたちで)芸術が生を吸収するプロセスが生じつつあった。つまりある時点から、西欧芸術ではいっさいが許されることになったのだ。まだ芸術になっていないなにかが見つかると、すぐさまそれはありがたくもこれぞ芸術と宣告された。非芸術であることが芸術の基準になったのだ。伝統的な意味での芸術に携わる芸術家は現代では真の芸術家として認知されない。真の芸術家とは非芸術に携わる者の謂であるとされているのだ。ソヴィエトの芸術家たちは力尽きる寸前にこうした事態に直面し、七〇―八〇年代の西欧でもまだ非芸術と考えていたもの、すなわち全体主義芸術にどうにか着手することができたわけである。ロシアのソッツアートが西欧で成功したのはそのせいなのだが、問題はしかし、芸術を非芸術として演出するメカニズムがすでに誰の目にも明らかになっているという点にある。確かにこの世界にはまだ、芸術の分野で使われてこなかった事物がみつかりはするが、やり口そのものが反復的になってしまったのである。
 芸術のひとつの時代が危機に瀕している。芸術においてなにがおもしろく、なにが独創的であるかを決める基準が失われ、いまではすべてが芸術家個人のコマーシャル戦略次第なのだと誰もがいう。たしかに、ある芸術上の手が尽きると、芸術界での成功はしばしば芸術家個人の押しの強さひとつにかかっているかのようにも思えてくる。なにを創りだすかではなく、作家のキャラクターそのものに関心が移っていく。芸術における女性や民族の表象、性的マイノリティーたちの芸術的表象をめぐる攻防がはじまり、社会的になんの特権もない芸術言語や芸術様式の純美学的な表象をめぐる闘争がつづけられている。

『全体芸術様式スターリン』 グロイス,ボリス 著 亀山郁夫、古賀義顕 訳
現代思潮新社 2000年

2014/1/19 日曜日

科学、技術、芸術の発展に結びついた脱テリトリー化の革命が、その過程であらゆるものを一掃するにつれて、主体を再テリトリー化しなければならないという脅迫が生じてくる

Filed under: 引用 — nomad @ 15:21:31

 進歩と近代性という概念が破綻し、この概念の崩壊のなかで開放をめざす社会的実践という概念そのものへの集団的信頼も危うくなった。それに伴って、一種の氷河期が社会関係を襲った。すなわち階級制と差別が激しくなり、こんにちでは貧困と失業は避けられない悪と見なされつつある。労働組合は、認められている制度の最後の枝にしがみつき、ときには反動勢力に近い保守的な態度を取る協同組合主義実践に閉じこもっている。左翼である共産党は救いようのない硬直化と教条主義に陥っており、他方、社会主義諸正当はテクノクラートの信頼できる代表になろうと気を配るばかりで、既存の構造を進歩主義的に再検討することをやめてしまった。だから、少し前まではもっと公正で平等な基盤の上に社会を再建する方向に導くふりをしていたイデオロギーが信頼を失ったのは、驚くにはあたらない。
 永く存続しようという明確な意図のもとに地球を飲み込みつつある残酷で破廉恥な新しい秩序の登場を前にして、いまや手をこまねいて見ているしかないということになるのだろうか。多くの知識人、芸術家、とりわけポストモダン様式を引き合いに出すあらゆるひとが、確かにこの嘆かわしい結論に達したように思われる。
 現代芸術のマネージャーたちによって、ドイツでは新表現主義、アメリカでは<バッド・ペインティング>あるいはニュー・ペインティング、イタリアではトランス・アヴァンギャルディア、フランスではフィギュラシオン・リーブル、ヌーヴォー・フォーヴなどと命名されたさまざまな大販売促進プロモーションが始められたことは、ここでは脇に置いておこう。私が重視したいのは、このようなことではなく、ポストモダニズムはモダニズムの最後のけいれんにほかならず、フォルマリストとその還元主義との過ちに反発してはいるが、ある意味ではそれを反映しているのであり、したがって実際はモダニズムと一線を画すものではないという事実を明らかにすることである。宣伝に支えられたこのようなブームの悪影響に対して警戒するくらいの個人的才能を持つ何人かの本物の画家が、これらの流派からも現れるだろう。しかし、これらの流派が甦らせると主張していた創造的な門がふたたび活発になることは絶対にないだろう。
 建築のポストモダニズムは、現在の資本主義的主体性が持つ著しい再テリトリー化の傾向に縛り付けられるに従って、逆に、ますます皮相的なものではなくなり、支配的な権力のもろもろの形成が芸術に与えた場所をますます明確に示すようになったと思われる。詳しく説明しよう。どの時代にも、そしてどのような歴史的変化があったとしても、資本主義的欲動は次のふたつの基本的な構成要素を常に融合させてきた。ひとつは社会的テリトリー、集団的アイデンティティ、伝統的価値体型を破壊することであり、われわれが脱テリトリー的と呼ぶものである。もうひとつは、個体化された人格の枠組み、権力図式、服従モデルを、最も人工的な手段さえ使って再構成することである。資本主義的欲動が再構成したものは、それが破壊したものと形式的には似ていないが、少なくとも機能的な視点からは類似している。この後者の構成要素こそ、私が再テリトリー化の運動と呼ぶものである。科学、技術、芸術の発展に結びついた脱テリトリー化の革命が、その過程であらゆるものを一掃するにつれて、主体を再テリトリー化しなければならないという脅迫が生じてくる。そして、コミュニケーションと情報の機械化が飛躍的に発展し、その機械化が脱テリトリー化の効果を記憶、知覚、悟性、想像力などの人間の能力に集中するにつれて、この対立はますます激しくなる。これは、人類学的な機能のある種の公式であり、また、人類のある種の父祖伝来のモデルであって、このモデルの中心に人類は取り込まれている。そして集団的主体性は、この異常なほどの変動に適切に対処できなかったために、われわれがこんにち知っている保守主義の不合理な波に身を委ねているのだと私は思っている。どのような条件が整えば、この不吉な洪水の水位を下げられるのか、そのために、この洪水のなかでまだ姿が見えている、解放への意志の残された小島がどのような役割を果たせるのかを知ることこそが、ポストマスメディア時代への移行という私の主張の下に横たわっている問いなのだ。この主題についてさらに先取りするのは止めておくが、次のことだけは言っておきたい。すなわち、危険なほど反動的な主体の再テリトリー化にわれわれを導いたシーソーが劇的な逆転をなしうるのは、解放をめざす新たな社会実践が十分に明確となる日、とりわけ、われわれの時代に影響を与える分子革命に、保守的な再テリトリー化とは異なる方法で接続しうる、主体的生産のいままでとは異なるさまざまなアジャンスマンが十分に明確となる日であると思われる。

2013/7/15 月曜日

国家・政党・イデオロギーこそが政治の中心にあるといった考えに、77年運動が取り憑かれることはないだろう

Filed under: 引用 — nomad @ 13:54:07

一見すると、この社会は、行動の自由を最大限に保証している。個々人はしたいことをできるし、何ひとつ規則を押しつけられることもない。個人の態度も集団的規律・訓練化を強要されることもない。しかし管理は、人間の頭脳という装置のなかに挿入されている。関係を形成すること、言語、コミュニケーション、交換自体を可能とする装置のなかに、それは挿入されているのだ。管理を特徴づけるのはその浸透性である。管理は、政治的に中央集権化されているわけではないのである。77年運動はこの不確かな圏域を知覚している。当時、ちょうど70年代の末に、思想上の優位性が構造主義からポスト構造主義へとはっきり移行しはじめていたのは偶然ではないのだ。ぼくたちはそれをリゾーム的指向、増殖する思考と呼びたいと思う。ドゥルーズ・グァタリの『アンチ・オイディプス』のなかで、この思考のかたちはもっとも鮮烈に表現されている。分裂症的創造力によって、パラノイア的規律・訓練型表象の場は強奪されることになるのだ。国家・政党・イデオロギーこそが政治の中心にあるといった考えに、77年運動が取り憑かれることはないだろう。運動が好むのは、自らの注意力、変質をもたらす行為、コミュニケーションを、もっと散らばった領域に分散させることだ。たとえば、居住形式、ドラッグ、セクシュアリティ、労働の拒否、倫理を通じて、モチベーションを喚起する労働のありかた、創造性といった領域に。

2013/4/29 月曜日

無限の現在を歌えば、未来なんか、もういらない

Filed under: 引用 — nomad @ 23:02:24

ちょうど一〇〇年前のフィガロ紙一面、世界の美意識のためにマリネッティが宣言文を掲載し、未来を信じた世紀の始まりを告げた。一九〇九年、この未来派宣言は人間の集合的有機体を機械状のものとするプロセスを速やかにひらいたのである。

この生成する機械はグローバルなウェブの連鎖にともない終わりを迎え、債券と経済的信用という経済の未来化に基づいた金融システムの崩壊により転覆された。約束はついえて、ポスト未来の時代がはじまった。

ポスト未来派のマニフェスト

一  危険な愛、尽きることのない甘いエネルギーの、日々の創造を詩おう。
二  アイロニー、やさしさ、叛乱。これがわたしたちの詩の本質。
三  イデオロギーと広告が称揚したのは、人間の生産力と神経エネルギーを永久に利益へ戦争へと動員することだった。わたしたちは優しさ、眠り、エクスタシー、つつましいニーズと感性の歓びとを謳おう。
四  世界の煌めきは新たな美、オートノミーの美によって豊かになることを宣言する。だれも画一的なペースを強いられることのない、それぞれのリズム。自動車はもの珍しさを失い、もはや期待された役割を果たすこともできない。速度はスローダウンしたのだ。車は都市交通のなかで身動きのとれない亀のように機動性を失った。ただ遅くあるのが速さだ。
五  人々の詩をうたおう。お互いのことを慮り。そして世界を抱きしめるために。
六  詩はおおらかに気前よく注ぎ込んで集合的知性をふくらませて、賃労働の時間を減らす。
七  ただオートノミーにのみ、美は存在する。知性をもたない作品は名作にはなれない。詩は空無の深淵にかける橋であり、多様なる創造力と自由なる特異性の共有をつくり出す。
八  わたしたちはいま世紀の突端にいる。ふりかえって軍事的攻撃性と国家主義の無知の暴力と恐怖の深淵を思い出さなければ、いつでもそれは甦りかねない。あまりにも長く画一的な宗教の時代を過ごしてきたのだった。遍き永遠の速度はすでにわたしたちの背後、インターネットの背後にある。前乗りのシンコペーションを忘れて、自ら特異なリズムをつかめばいい。
九  戦争の言葉を語る者たちを笑おう。競争への狂信、虐殺を煽るひげを蓄えた神々の熱狂。テロルの狂信を、フェミニンな武装解除で包んであげよう。
一〇 芸術を、生を変革する力としよう。大衆的コミュニケーション[マスコミ]と詩との区別をなくし、メディアの力を商人から取りもどして詩人と賢者へと返す。
一一 群衆の詩をうたおう。ついに賃労働への隷属から解放しようと、搾取に対して連帯を謳い叛乱する者たちの詩。知と発明の無限のネットワーク、物質の重みから解放してくれる非物質的なテクノロジーのうたを。地に足をつけて蜂起するコニタリアートの詩。無限の現在を歌えば、未来なんか、もういらない。

──二〇〇九年二月二〇日、ローマ

フランコ ベラルディ(ビフォ)『プレカリアートの詩』
河出書房新社 2009年

これこそアヴァンギャルドの切望したものではなかっただろうか

Filed under: 引用 — nomad @ 18:27:51

未来派やアヴァンギャルドは自らにルールを破る任務を課した。錯乱はランボー以来二〇世紀の実験が残した伝統である。規制緩和はまた、記号資本の発展への途を敷きつめる後期近代的ハイパー資本主義のスルーガンでもあった。外的な機械と機械的速度の全体主義的時代において、かつては国家形態を用いて社会にルールを押しつけていた資本主義は、再結合技術とエレクトロニクスの絶対的速度によって内部化してコントロール可能となったので、国家の媒介なしに済ませることを決定したのだ。

マニュファクチュア的資本主義の古典的形態において、価格、資金、利潤の変動は必要労働時間と価値決定の関係に基礎づけられていた。ミクロ電子的技術の導入と生産的労働の知性化の結果によって、様々の生産諸力とそれぞれの大きさとの関係が不確定であるような時代に突入した。マーガレット・サッチャーとロナルド・レーガンが規制緩和を立ち上げたことにより価値法則の終焉が印され、この遺産が政治経済へと相続されたのだった。主著『象徴交換と死』においてジャン・ボードリアールは直感的に、千年紀の終わりの展開について全般的な方向性を導き出していた。

現実原則[リアリティの原則]は価値法則の特定の段階と合致している。今日では、すべてのシステムは不確実さのなかで動揺しており、現実なるものはコードとシミュレーションというハイパー現実に吸収されてしまう。

全システムが不確実性に陥り、象徴と指示対象、ジミュレーションと出来事、価値と労働時間といったあらゆる呼応関係はもはや維持されないものとなる。しかし、これこそアヴァンギャルドの切望したものではなかっただろうか?実験的芸術は象徴と指示対象の結びつきを切断したがってはいなかったか?こう述べることによって、リベラルな経済的規制緩和をもたらす要因となったといって前衛芸術を告発するのではない。言いたいのは、前衛芸術のアナーキーなユートピアは現実化されたのであり、そのうえで反対のものに転化したということである。社会がルールを内部化し資本が司法的法と政治的合理性の両方を放棄しえて内部化された自動作用のうわべのアナーキーに陥る瞬間。これこそ実のところ、全体主義の最も厳密な形態である。

フランコ ベラルディ(ビフォ)『プレカリアートの詩』
河出書房新社 2009年

2013/1/22 火曜日

ぼくたちは今になってようやく、芸術が現実へと翻訳されることによってもたらされる真の意味を理解できる

Filed under: 引用 — nomad @ 2:21:25

創造的運動と生産的労働

商品の詳細 そういうわけで、毛沢東=ダダイズムの仮説によると、ダダイズムの旧式のユートピアを現実化するのは、コミュニケーションの発達、ポスト工業が引き起こすテクノロジーの発達、そしてコミュニケーション・ネットワークの広がり(当時、自由ラジオのなかにその適用と実験の最初の例が散見されていた)といった現象に他ならないのだ。こうしたかたちで、芸術が廃棄され、日常生活が廃棄され、芸術と日常との分断が廃棄されるというわけなのだ。
 まさしく、その基底をなす増殖する数々の主体からすれば、浸透力があり中心をいくつも有するコミュニケーション技術の広がりを通じて、その目論みは実現可能かつ実践可能なものとなっていたのである。
 多くの人たちを巻き込んだ運動によって、この直感は生み出され、とてつもなく自発性主義的なやり方で、現実へと翻訳されはじめた。しかしその逆に、その問題についてきっちりと考察を行う必要性を引き受けた人は、わずかであった。なかでも、マウリツィオ・カルヴェージは『大衆前衛』という本のなかで、77年運動を、芸術的前衛という企てと、テクノロジーによるコミュニケーションを用いた大衆の実践とが連接される契機として考察していた。
 ところが、この過程の意味を、単なる技術の発展による産物に切り縮めてしまう人たちもいた。彼らにとっては、それは何の計画性もない言語をつくり出しているにすぎないのである。
 たとえば当時の論争のなかで、ウンベルト・エーコは、運動は自らの志向性を、ほとんど自覚をもって意識できていないという主張を試みた(この論争は後に『焦燥の7年間 [Sette anni di desiderio]』という本のなかに収められて再出版された)。エーコは、それを単なる社会学的・技術的な事実として解釈するために、創造的運動の生産的かつ自律的なポテンシャルを取り消そうとしたのである(この点に関連して、1977年4月の『ア/トラヴェルソ』誌に掲載された論文「アリーチェ──偽善か共感か」を本章の付録として引いておこう)。
 しまいには、次のように言う人たちもいた。運動のなかには、歴史的な過去の前衛、とりわけ未来派の非合理主義的特徴が再度出現しているにすぎない、と。なかでも、アルベルト・アゾル・ローザだ。運動のなかには「19世紀指向」(ようはネオ・ファシスト)が現れているとみなす図式が、共産党寄りの知識人のなかに当時広く流布されていたが、アゾル・ローザはこの図式にしたがって、新しく生まれていた創造性と武器を用いた暴力とを同一視していたのだ。
 あれから何年もたった今、これとよく似た図式を採用した人たちについてあれこれ推論するのは無駄なことだろう。だから、次の事実を観察するにとどめておこう。それは、大衆の「新未来派」を侮辱し、それに反発していたすべての人たちが、今日、ジャンニ・アニェッリによって再び推進された未来派芸術型のヴェネツィアにあるパビリオンに入場するために、列をつくって並んでいるという事実である。
 毛沢東=ダダイズム(いくつかの新聞は、それを運動が有する「創造的翼」と定義していた)が表現したのは、前衛によって唱えられた言語の断絶が広く流布されたこと、新しいコミュニケーション技術によって、社会生活にもたらされていた肯定的なポテンシャルが自覚されたことに他ならない。
 それゆえに、毛沢東=ダダイズムが表現したのは、芸術のなかに生をもたらし、生のなかに芸術をもたらすという前衛主義者たちの意図が実現されたということなのである。
 たとえ「運動は大衆のデモのレベルで敗北した」、あるいは「テロリズムが出現したせいで敗北した」と考える人がたくさんいるとしても、現実には間違いなくこの領域、つまり芸術と生が関係する領域、コミュニケーションと生産が関係する領域において、運動は真の敗北を喫したのだ。(この敗北によって新しい世代との断絶が生み出されたために、80年代に創出された数多くの言語のなかに集合的連帯という価値を翻訳できなかったのである)。
 毛沢東=ダダイズムが突き止めたのは、根源的な問いが賭けられていた領域、つまり芸術を現実へと翻訳することに関する領域だったのだ。
 とはいえ結果としてみてみれば、芸術は確かに現実へと翻訳されたのである。しかし、その翻訳のあり方というのが、当時考えられ切望されたあり方とは非常に異なっているようにみえる。それはつまり、芸術の現実への翻訳が、テレビ、広告、知の軍事利用によって成し遂げられてしまったということなのだ。現実は、諸々の記号が自ずと社会的なものを創出する流れへと変化する場所となったのだ。しかし、これはどのような記号なのだろうか?どのような流れなのだろうか?
 ぼくたちは今になってようやく、芸術が現実へと翻訳されることによってもたらされる真の意味を理解できる。価値の生産過程のなかへ創造力が漸進的に包括されていく事態、想像的なものを生産する全体主義的機械によって、創造的なものが吸いあげられていく事態に直面してようやく、ぼくたちはその意味を理解できるのだ。それはすなわち、生産過程が変容する、脱物質化する、精神化するという意味である
 これが、ボードリヤールやペルニオーラが「シュミラークル社会」として定義する移行=転換の意味だ。
 ぼくに言わせれば、マリオ・ペルニオーラは、後期資本主義の変容過程のただ中にあった世界のなかで、芸術的前衛がもつ意味を的確に把握できていた唯一のイタリアの哲学者である。
 1972年の本(『芸術的疎外 [L’alienazione artistica]』)のなかで、彼は芸術と生の分断という点から、歴史的前衛の問題構成について明確に述べていた。彼によれば、前衛が否定し拒絶するのは、経済(現実)領域とシニフェ(芸術)領域との堅固な分断状態である。そして前衛は、ダダイズムの経験のなかで、この分断を根源的なやりかたで克服しようと目論むのだ。ペルニオーラも参加したことがある「シチュアシオニズム」は、資本主義が成熟した時代において、ダダイズムのねらいが有する政治的現実性を十分に意識したものであった。しかし、シチュアシオニズムによって目指された芸術と生の分断を克服する方法は、ダダイズムのねらいとは、まったく似ても似つかぬものであった。まさにこの点において、ペルニオーラは、前衛が消え去ってしまう状況を説明する。このような消失は、逆説的なかたちで前衛が勝利したこと、つまり逆説的なかたちで芸術が現実へと翻訳されてしまったことと不離一体なのである(『シュミラークル社会 [La società dei simulacri]』)という名を冠した1981年の本のなかで)。
 68年に「権力への創造力」がうたわれたときに、前衛が有する行動計画の核心が取り戻されたはずだった。
 しかしながら、現在の非物質的生産の世界では、想像的なものによって、想像力を麻痺させるような支配が生み出されている。想像力はこのようなかたちで権力のほうへと向かっている、ただ権力の場所にのみ存在しているのである。権力とは、技術と経済によって吸いあげられてしまう想像力のことなのだ(想像力は広告・テレビ・軍事を介して、恐怖・不況・パニックを介して吸いあげられた)。
 想像力は、こうして想像界のなかで麻痺している。想像界は自らの姿に似せて、個々人の想像力をも形づくっていく(個々人の想像力とは、たとえば、期待、モチベーション、投影といったことだ。最近の分析では、実践、行為、振る舞い、そして存在のあり方といったことまでもが含まれている)。しかし、商品の支配下へ創造的エネルギーを従属させるには、創造活動を空にする過程、その具体的な質や意識をゼロ化すること、創造の形式を中身のない抽象的な労働奉仕へと切り縮めてしまうこと、こういった作業が必要になる。
 イタリアではこのゼロ化が、ある文化政治を通じて成し遂げられた。この文化政治によって、77年の遺産はきわめて表層的なかたちで摘み取られ、市場と権力へ依存する命運のほうへと差し向けられることになったのである。
 この文化政治は、はかなさの詩学と同様のものである(もっと一般的にはトランスアバンギャルドのような、ここ10年ほど繁栄している様々な文化表現のなかに見出される)。
 この表層への信仰によって、創造力とその深層にあるポテンシャルとが分断されてしまった。その結果、創造力にあふれた社会活動の領域は、社会を生きいきさせよう、人々に気分転換させてあげよう、そして次第に、空の空間(いわゆる自由時間)のために商品を生産しよう、といったことへと改変されてしまったのである。
 はなかさをめぐる文化政治というのは、いかがわしいものだったのである。そうしたなかで、左翼の政治家連中はこの表層性に対して戸惑いをみせ、創造力の爆発が有した意味と潜勢力を理解できない無能さのせいで、イタリア共産党が文化の面で混迷状態にあることを自ら立証していたのである。まさにこのような左翼の政治が、大衆文化をシニシズムのほうへと明けわたしてしまったのだ。シニシズムは、80年代のクラクシの政治的転回のなかで、完成され勝利を挙げることで、広く行きわたる社会的態度となる。文化は、市場と新たな富裕層のために捧げられるものとなる。何かを深く探求することは、無知のせいでしつこく嘲笑されつづける。論理的一貫性は、傲慢さのせいで踏みにじられる。洗練された美学は、卑俗さによって激しく打ち倒されてします。
 このような移行を通じて、創造力にあふれた知性がメディアのたわごとに従属する前提条件がつくりだされていったのである。芸術的な探求や実験を行うのではなく、創造力に満ちた緊張状態を空にするために、たくさんの出資金が割り当てられるのだった。このようにして、コミュニケーションや芸術上の実験を行ってきた大衆の原動力を、情報を扱う大資本によって管理運営され吸いあげられたメディアの生産に従事するオペレーターへと、改変することができたしだいである。

フランコ ベラルディ(ビフォ)『NO FUTURE―イタリア・アウトノミア運動史』
洛北出版 2010年

次ページへ »