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2007/11/7 水曜日

進行する限りにおいて完成され続ける純粋なる<過程>

Filed under: 引用 — nomad @ 18:59:04

アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)この世界においては、(たとえ、融資の構造によるものでないしかとしても)、学者や技術者や、それに芸術家さえ、のみならず科学と芸術そのもの自身が、極めて強力に既成主権に奉仕しているのであるが、こうした世界において、何故にかくも芸術や科学が頼りにされるのか。その理由はこうだ。芸術がそれ自身の偉大さやそれ自身の天才に到達するや否や、芸術は脱コード化や脱土地化の連鎖を創造するが、これらの連鎖は欲望する諸機械を設立し作動せしめるからである。絵画におけるヴェネチア派の例を取りあげよう。ヴェネチアに大きな自治を許した《原国家》の領域内で、ヴェネチアは最も強力な商業資本主義を発展させているが、この時には同時にその絵画は明らかにビザンチンのコードの中に紛れこんでいる。このコードにおいては、色や線までがひとつのシニファンに従属し、このシニファンが、ひとつの垂直の秩序として色や線の位階秩序を規定している。ところが、十五世紀の中ごろに、ヴェネチアの市販主義が衰退の最初の兆候に直面することになると、何ものかがこの絵画の中で粉微塵に砕け散ることになる。新しい世界が開かれ、別の芸術が現れるといっていいかもしれない。この別の芸術においては、種々の線は脱土地化し、種々の色は脱コード化して、これらの線や色はもはや、そのそれぞれ自身がそれぞれの間で相互に維持している関係をしか指示しないことになる。逃走〔漏出〕線あるいは突破線とともに、絵画の水平線的あるいは横断的な組織が生まれてくることになる。キリストの身体は、あらゆる方向にひきのばされて、あらゆる部分であらゆる仕方で機械として扱われ、器官なき充実身体の役割を演ずることになるが、この器官なき身体は、欲望の一切の諸機械がとりつき付着する場であり、芸術の喜びが爆発する<サド – マゾヒスト的>活動が行われる場なのである。いくたりかの<同性愛のキリスト>さえもが、現れる。種々の器官は、器官なき身体の直接の力となり、この身体の上で種々の流れを発するが、聖セバスチャンを射殺したかの無数の矢のような、数えきれないほどの切口が現れて、これらの流れを次々と切断しては、また切断し直して、別の種々の流れをうみだしてゆくことになる。種々の人物や種々の器官は、位階秩序をもった共同の備給に従ってコード化されることをやめるのだ。それぞれの人物や器官は、それ自身で価値のあるものとなり、それ自身の仕事につくことになる。こどものイエスが一方をみつめているときに、処女のマリアは他方に耳を傾ける。イエスは一切の欲望する子供たちに、マリアは一切の欲望する女たちにかかわりをもつことになる。瀆神の喜ばしい活動が、私企業化の一般化する事態のもとで拡がってゆく。チントレットのような画家は、世界の創造を長いレースとして描いているが、ここでは、《神》自身はこのレースの最後列にいて、右から左へと出発の合図を与えている。突然、十九世紀のものともいえるような、ロットの絵画があらわれてくる。もとより、こうした絵画の流れの脱コード化は、つまり欲望する諸機械を地平線に形成するこれらの分裂気質線は、古いコードの断片の中に再び戻されることになるか、でなければ新しいコードの中に、そして何よりもまず本来の意味での絵画の公理系の中に導かれるか、することになる。この絵画の公理系とは、種々の逃走〔漏出〕に対して柵をつくり、絵画全体が線と色との横断的諸関係に入る道を閉ざして、この絵画全体をアルカイックな土地や新しい土地の上に折り重ねる働きをするものである。(例えば、遠近法がそうである)。だから、たしかに、脱土地化の運動は、土地の裏側としてしか捉えられないということになる。このことは、たとえこの土地が、残余の、あるいは人工の、あるいは構造の土地であってさえ、そうなのである。しかし少なくとも、何ものかは生起したのだ。そしてそれが、コードを決壊させ、シニファンを破壊し、構造の下を通って流れを通過させ、欲望の極限において切断を行うというわけだ。つまり、ひとつの突破口があらわれたのだ。十九世紀が既に十五世紀のただ中に存在するというのでは十分ではない。何故なら、こんどは、十九世紀について同じようなことをいわなければならないであろうからである。また、こうなると、解放された奇妙な種々の流れを既に自分の下にもっていたビザンチンのコードについても、同じようなことをいわなければならなかったのだということにもなる。われわれは、既に画家のターナーについて、またかれの絵画について(つまり、ときには「未完成」と呼ばれてはいるが、じつは最も完成しているかれの絵画について)、このことをみてきた。天才が存在するや否や何かが起こるのだ。もはや、いかなる学派にも、いかなる時代にも属することなく、ひとつの突破口を開く何かが存在することになるのだ。──目標をもたない、<過程>としての芸術が。しかしそうしたものとして完成している芸術が。 (more…)