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2007/10/31 水曜日

芸術はつねに幻想への距離に依存する

Filed under: 引用 — nomad @ 19:52:13

幻想の感染幻想が有効に機能するためには、それはあくまで「暗黙」でなければならず、それによって支えられる、明示的な象徴の生地に対する距離を維持し、その内在的な逸脱として機能しなければならない。明示的な象徴の生地とその幻想の背景との間の根幹を成す溝は、どんな芸術作品にも明らかである。場所の方がそこを埋める要素よりも優先されるため、芸術作品はいくら調和的でも、そもそも断片的であり、その場所に対して不足している。芸術が成功する「仕掛け」は、芸術家がもつ、その不利を利点に転じる能力にある──中心的な空虚とそれを囲む諸要素におけるその共鳴をうまく操作するのである。そうすると、「ミロのヴィーナスの逆説」も説明できる。今日においては、この像の腕が欠けているのはもう欠陥とは感じられておらず、逆に、その美的衝撃力の具体的な構成要素と感じられている。頭の中で簡単な実験をすれば、この判断が確かめられる。損傷のない、完全な像を想像すれば(一九世紀には、美術史家は、実際にせっせとそれを「補完」しようとしていた。いろいろな「再現像」があり、その手には槍や、松明や、鏡まであった・・・)、結果は紛れもなく低俗(キッチュ)であって、本来の美的衝撃力は失われてしまう。この「再現像」で重要なのは、まさにその多様性である。空虚を埋めることになる対象は、もともと二次的なもので、そういう意味では交換可能なのだ。この一九世紀のキッチュに「ポストモダン」のほうで対応する典型例は、ある古典的な作品が構造をとる中心となる空虚を埋めようとする近年の試みによって提供される。ここでも結果は不可避的にいかがわしい通俗性になる。最近のものに『ヒースクリフ』という小説がある。これは『嵐が丘』の中心をなす空虚、つまりヒースクリフが嵐が丘を出て、金持ちになって戻ってくるまでの間、何をしていたのかということを扱っている。以前の、もっとうまく行った例としては、ヘミングウェイの同名の短編に基づく古典的な暗黒世界ものの映画(フイルム・ノワール)『キラーズ』がある。この映画の冒頭の一〇分は、映画は忠実に元の小説を追っている。ところがその後は、その小説の前の話になる──「スウェーデン人」が生ける屍のように無為に暮らし、静かな死を待つようになる元となった、トラウマとなった謎の過去の経験を再現しようとするのである。 (more…)

2007/10/30 火曜日

芸術における止揚が問題となる

Filed under: 引用 — nomad @ 19:22:42

身体なき器官芸術と科学はどのように止揚─昇華と関わっているのだろうか?両者はともに止揚ー昇華に関わっている(すなわち両者はともに現実における直接的に生きられた経験への没入ー頽落との隔たりを造りだしている)が、その様式について言えば、異なっている。 科学は止揚をもたらす抽象の過程を果たしているが、この過程では性化された身体の生きられた現実はまったく取り除かれ、現実は純粋な外延、抽象的な空間へ配分された事物に還元されている。科学にとって数式という表現を与えることができる抽象は、したがって、<現実的なこと>との唯一の接触である。そこでは、現実と<現実的なこと>は、身体の生きられた具体的な経験と抽象的な(最終的には意味のない)数式に表現される定式との対立として、措かれている。芸術は、科学とは対照的に、生きられた現実の内部に留まっている。芸術は、断片や対象を生きられた現実から伐り出し、それを「<物>のレヴェル」にまで高める。こうした手続きの零レヴェルとして、デュシャンの<レディ・メイド>の芸術を思い起こして欲しい。デュシャンは芸術の対象として便器を展示したが、そうすることで、その物質性を<物>の現象形態へ「変質させ」たのだ。(いかなる意味でデュシャンの便器は創造的行為を表現しているのであろうか? (more…)

この世が恐怖に充ちていればいるほど、芸術は抽象的となる

Filed under: 引用 — nomad @ 19:02:46

クレーの日記此岸の世界を後にし、彼岸のなかへ建設する。彼岸こそ完全な世界なのだ。
抽象化。
これこそ情熱(パトス)のない冷たい浪漫主義というべきか。前代未聞の怪物だ。
この世が恐怖に充ちていればいるほど(まさに現在の如く)、芸術は抽象的となる。此岸的な芸術は、幸福な時代に栄えるものなのだ。私たちの生きている時代は、過渡期である。昨日の世界から今日の世界への移行なのだ。形象の寒々とした洞窟には、残骸がころがっている。人間はまだ未練がましくあたりを徘徊している。残骸は、抽象化の素材となる。
贋の分子の巣くう廃墟、不純な結晶物の生まれる素地。
これが、いまの時代なのだ。

ところが、──ある日、結晶鉱から血がふき出した。わが生涯もここに終わりを告げるのだ──と私は思った。戦争と死。だが、結晶体の私に死ということがあるのだろうか。
結晶体の私。

パウル・クレー『クレーの日記』 新潮社 1961年

あるがままの創造的表現が最優先される再特異化の時代

Filed under: 引用 — nomad @ 17:23:55

三つのエコロジー生態(エコ)─論理(ロジック)はヘーゲル的あるいはマルクス主義的な弁証法とちがって、反対物を《解消》しようとするものではない.。とくに社会的エコロジーの領域では、誰しもが共通の目的を定め、 《無邪気な兵隊として》──つまり模範的活動家として──行動するようになる闘争の時代がある一方、それと同時に、個人的・集団的主観性が《引っこみ》、集団的合目的性に対してももはや何の気づかいをすることもなく、あるがままの創造的表現が最優先される再特異化の時代というものもある。強調しておきたいのは、この新しいエコゾフィー的論理が芸術家の論理と類似しているということである。すなわち芸術家というのは、突然当初の企画を変えるような何か事故的に生じたディティールとか、偶発的出来事を起点にして、作品に手直しをくわえながら、確固たるものであったはずのそれ以前のパースペクティブからどんどん逸脱していくものなのである。《例外は規則を強化する》ということわざがあるけれども、例外はまた規則を変えたりつくりなおしたりもするのである。

フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー』大村書店 1991年

2007/10/28 日曜日

自然と歴史的現実とをラディカルに変容させる能力としての生きた労働

Filed under: 引用 — nomad @ 0:06:06

芸術とマルチチュード芸術もまたこのような世界のただなかに存在しているのだということ、このことも、ぼくは感じ取っていました。事実、ぼくを取り巻いていた世界が、いわば、産業的生産で溢れ返っていたために、そして、ぼくの触れるものすべてが、たとえばくにとっては自然的で具体的に思われたにしても、じっさいには、製造されたものであり抽象物であったために、芸術もまた、この同じ地平の内部でしか動くことができなかったのです。資本主義的かつ産業的な生産様式によって構築されるものには、もはやほとんど「外」が残されていなかったために、芸術を把握し考えることができる場は、その「内」においてのみのことだったのです。それまで具象物(フィギュラティヴ)であった芸術について、それが抽象的なものになったと言うのは、ありきたりのことでした。起こりつつあったことは、とりわけ、芸術の生産様式が、さまざまな職人的実践と物象化した想像力(イマジネーション)[構想力]とによって、平坦的なものになり、資本制生産様式の猿真似をしているということだったのです。参照されるべき自然モデルも、題材とすべきイマージュも、もはやありませんでした。造形する[figurare]ということは、いまや、生産するということを意味するようになったのであり、また、自然は、すでに変形されたかたちでしか、その姿を現しえなくなったのです。すなわち、モンスター(奇怪でありながらも驚嘆すべき事物)、自然やさまざまな自然物形象(フィギュール)への追加や増加や人工補綴(プロテーゼ)、異種交雑、拡散、さまざまなパフォーマンス‥‥‥といったものの生産。芸術は、それ以来、さまざまな社会的構築やコミュニケイション的構築からなる未分化の多様体の内部へと傾斜していったのです。芸術は、ぼくたちみんながそのなかで行動している商品世界の一部となったのです。問いは、したがって、次のように改められました。すなわち、このような世界の内部において、芸術は、芸術家は、美を生産する活動は、いかにして行動しえたのか。文明史において、近代が終わるまでは、芸術的想像力(イマジネーション)[構想力]の大部分は、<現実的なもの(リアル)>を表現するということに存していました。しかし、いまや、現実的なものなどもはや存在せず、あるいはむしろ、現実的なものが存在するのは、あくまでも構築物としてもことであり、自然としてではもはやなく、加工されたものとしてのことなのです。生きた抽象物というものが問題となっているのです。その内部でいかに行動するのか。また、芸術的なものとして提示される対象(オブジェ)が、ときとして、ほんとうに美しかったとすれば、いったいそれはなぜなのか。 (more…)

2007/10/27 土曜日

神も動物も具えている「優美」が人間だけに欠けている

Filed under: 引用 — nomad @ 20:32:08

精神の生態学オルダス・ハックスレーは、「優美」grace の追求ということが、人間にとって中心的な存在だと述べている。彼のいう grace の意味は、新約聖書における grace の意味〔神の恩恵〕と変わらないとオルダス自身は考えていたが、しかしその説明は彼一流のものである。ウォルト・ホイットマン同様、彼もまた動物の行動とコミュニケーションに人間の失われた純良さ、素朴さを見出していた。人間の行動は、目的心や自意識からくる「あざむき」によって汚されている、おのれ自身すら人間はあざむく、その理由は動物たちがいまも持っている「優美さ」を人間が失ってしまったことにある──とオルダスは考えた。 (more…)

2007/10/16 火曜日

だが、なぜ引用なのか

Filed under: 引用 — nomad @ 14:56:56

宮川淳著作集だが、なぜ引用なのか。ここで引用論はつぎのように設定されるだろう──。
おそらく現代のもっともアクチュアルな思想状況(おそらく今日の美術はそのもっとも象徴的なインデックスであるが)は、われわれがその中で語りつづけてきた、そしていまなお語りつづけている文脈そのものが問い直されているところにあるように思われる。しかし、そのようないわばメタ・クリティックは、これまでとは別の文脈の、したがってまた同時に別の論述の仮説作業と同時的でしかありえないだろう。引用論はここでそのようなものとして求められている。 (more…)