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2007/10/30 火曜日

芸術における止揚が問題となる

Filed under: 引用 — nomad @ 19:22:42

身体なき器官芸術と科学はどのように止揚─昇華と関わっているのだろうか?両者はともに止揚ー昇華に関わっている(すなわち両者はともに現実における直接的に生きられた経験への没入ー頽落との隔たりを造りだしている)が、その様式について言えば、異なっている。 科学は止揚をもたらす抽象の過程を果たしているが、この過程では性化された身体の生きられた現実はまったく取り除かれ、現実は純粋な外延、抽象的な空間へ配分された事物に還元されている。科学にとって数式という表現を与えることができる抽象は、したがって、<現実的なこと>との唯一の接触である。そこでは、現実と<現実的なこと>は、身体の生きられた具体的な経験と抽象的な(最終的には意味のない)数式に表現される定式との対立として、措かれている。芸術は、科学とは対照的に、生きられた現実の内部に留まっている。芸術は、断片や対象を生きられた現実から伐り出し、それを「<物>のレヴェル」にまで高める。こうした手続きの零レヴェルとして、デュシャンの<レディ・メイド>の芸術を思い起こして欲しい。デュシャンは芸術の対象として便器を展示したが、そうすることで、その物質性を<物>の現象形態へ「変質させ」たのだ。(いかなる意味でデュシャンの便器は創造的行為を表現しているのであろうか? (more…)

この世が恐怖に充ちていればいるほど、芸術は抽象的となる

Filed under: 引用 — nomad @ 19:02:46

クレーの日記此岸の世界を後にし、彼岸のなかへ建設する。彼岸こそ完全な世界なのだ。
抽象化。
これこそ情熱(パトス)のない冷たい浪漫主義というべきか。前代未聞の怪物だ。
この世が恐怖に充ちていればいるほど(まさに現在の如く)、芸術は抽象的となる。此岸的な芸術は、幸福な時代に栄えるものなのだ。私たちの生きている時代は、過渡期である。昨日の世界から今日の世界への移行なのだ。形象の寒々とした洞窟には、残骸がころがっている。人間はまだ未練がましくあたりを徘徊している。残骸は、抽象化の素材となる。
贋の分子の巣くう廃墟、不純な結晶物の生まれる素地。
これが、いまの時代なのだ。

ところが、──ある日、結晶鉱から血がふき出した。わが生涯もここに終わりを告げるのだ──と私は思った。戦争と死。だが、結晶体の私に死ということがあるのだろうか。
結晶体の私。

パウル・クレー『クレーの日記』 新潮社 1961年

あるがままの創造的表現が最優先される再特異化の時代

Filed under: 引用 — nomad @ 17:23:55

三つのエコロジー生態(エコ)─論理(ロジック)はヘーゲル的あるいはマルクス主義的な弁証法とちがって、反対物を《解消》しようとするものではない.。とくに社会的エコロジーの領域では、誰しもが共通の目的を定め、 《無邪気な兵隊として》──つまり模範的活動家として──行動するようになる闘争の時代がある一方、それと同時に、個人的・集団的主観性が《引っこみ》、集団的合目的性に対してももはや何の気づかいをすることもなく、あるがままの創造的表現が最優先される再特異化の時代というものもある。強調しておきたいのは、この新しいエコゾフィー的論理が芸術家の論理と類似しているということである。すなわち芸術家というのは、突然当初の企画を変えるような何か事故的に生じたディティールとか、偶発的出来事を起点にして、作品に手直しをくわえながら、確固たるものであったはずのそれ以前のパースペクティブからどんどん逸脱していくものなのである。《例外は規則を強化する》ということわざがあるけれども、例外はまた規則を変えたりつくりなおしたりもするのである。

フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー』大村書店 1991年