芸術における止揚が問題となる
芸術と科学はどのように止揚─昇華と関わっているのだろうか?両者はともに止揚ー昇華に関わっている(すなわち両者はともに現実における直接的に生きられた経験への没入ー頽落との隔たりを造りだしている)が、その様式について言えば、異なっている。1 科学は止揚をもたらす抽象の過程を果たしているが、この過程では性化された身体の生きられた現実はまったく取り除かれ、現実は純粋な外延、抽象的な空間へ配分された事物に還元されている。科学にとって数式という表現を与えることができる抽象は、したがって、<現実的なこと>との唯一の接触である。そこでは、現実と<現実的なこと>は、身体の生きられた具体的な経験と抽象的な(最終的には意味のない)数式に表現される定式との対立として、措かれている。芸術は、科学とは対照的に、生きられた現実の内部に留まっている。芸術は、断片や対象を生きられた現実から伐り出し、それを「<物>のレヴェル」にまで高める。こうした手続きの零レヴェルとして、デュシャンの<レディ・メイド>の芸術を思い起こして欲しい。デュシャンは芸術の対象として便器を展示したが、そうすることで、その物質性を<物>の現象形態へ「変質させ」たのだ。(いかなる意味でデュシャンの便器は創造的行為を表現しているのであろうか?
その直接的な物質的内容のレヴェルから言えば、それについての創造的な何ものも存在しないことは言うまでもない。デュシャンは普通の俗な対象を採り上げ、それを芸術作品として展示した。創造性についての彼の真の行為は、しかし、これに先立って起きている。それは、便器の展示が芸術作品と見做され得るような方法で、芸術作品の空間、そしてこの空間を決定する規則を暗黙の裡に再定義する((あるいはむしろ、私たち観客は、私たちが便器を芸術作品と理解することができるようなやり方で芸術空間を再定義するように強いられるのである)。これが意味することは、言うまでもなく。私たちが(空っぽの)空間の役割をそれ自体として意識するようになる、ということである。芸術作品の対象であることは、対象の直接的な性質ではなく、その「反省規定」(ヘーゲル)である。同様の論旨にそくしてマルクスは、人民が或る人間に王として応接するのは、彼が彼自身に措いて王だからではなく、人民が彼を王として応接するからこそだ、と語っている。人びとは対象がそれ自体に措いて芸術作品だから対象を芸術作品と考えるのではなく、人びとがそれを芸術作品と考えるからこそ、芸術作品なのである。))芸術作品のこうして科学と芸術はまったく異なった方法で<物>に関わっている。芸術は<物>を直接─無媒介に換気する(すなわち、芸術的美は<物>の次元を隠蔽/告知するヴェールである)が……
科学は、<物>を喚起するというよりも、むしろ<物>についてはいかなることも知りたがらない。その理由は、おそらく、核爆弾、細菌戦、遺伝子技術のある種の帰結など、<物>が科学を介してそのもっとも恐るべき崩壊的な形式において回帰することを常とするからだろう。2
レダーが列挙したこれらの事例すべてに共通する特徴とは何か? それは、科学的知識の結果として私たちの身体に出現した「非自然的な」(以前は知られていなかった)新たな対象──ある種の物資化された科学的知識──を指示しているが、それは、それ自体として、私たちのもっとも基本的な「現実について/の感覚ー意味」をその土台から覆し、侵犯しさえする。原子爆弾があんなにも怪物的なのは、たんにその破壊力が凄まじいからではなく、より根源的で不安定な事実、すなわちそれによって私たちの現実のまさに組成(エコノミー)が解体してしまうように思われるからである。こうした考えかたにちょっとした変更を加えれば、これは遺伝子工学の結果として出現するであろう怪物にも当て嵌まるだろう。それらは、ある意味で、私たちの「日常的な」現実の一部ではないのである。
とすれば、芸術と科学のどちらがより「根源的」なのだろうか? この選択はほとんど決定不能である。科学は「病理(かんじょう)的な」経験的現実の排除という意味での止揚をとことんやり尽くすが、しかし、まさにそれがゆえに、<物>を排除することになる。芸術における止揚は不完全である──芸術家は経験的現実(の断片)にこだわるが、止揚のこのまさに不完全さが、彼あるいは彼女が、「病理(かんじょう)的な」残余を「<物>の尊厳」にまで高めることによって、<至高>という効果を発生させることを可能にするのである。ここでは、「<理念>の感性的な顕示」としての芸術というヘーゲルの定式の曖昧さに出会うことになる。すでにシェリングにとっては明らかなことだったが、この定式を、先在する或る概念的真理があたかも完成的な衣服を纏って出現するかのように、読んではならない──構造はより逆説的である。ここでの重要な語は<理念>であるが、それは(カントにあっては)まさに知り得ないものの標識である。こうして問題は、芸術が知識の把握に抗うことを顕わにする、という点にある。芸術的「美」とは、<現実的な物>の深淵、象徴化に抗う<物>が現れる際に採る姿態としての仮面である。3 一つのことが確かである。それは、科学と芸術とのある種の「綜合」を目指すことは最悪のアプローチだ、ということである。そうした試みは、美学化された知識がある種の<ニュー・エイジ>的怪物として誕生するといった結果をもたらすだけだからである。
こうして芸術における止揚が問題となる。
スラヴォイ・ジジェク『身体なき器官』河出書房新社 2004年
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