2007/10/28 日曜日

自然と歴史的現実とをラディカルに変容させる能力としての生きた労働

Filed under: 引用 — nomad @ 0:06:06

芸術とマルチチュード芸術もまたこのような世界のただなかに存在しているのだということ、このことも、ぼくは感じ取っていました。事実、ぼくを取り巻いていた世界が、いわば、産業的生産で溢れ返っていたために、そして、ぼくの触れるものすべてが、たとえばくにとっては自然的で具体的に思われたにしても、じっさいには、製造されたものであり抽象物であったために、芸術もまた、この同じ地平の内部でしか動くことができなかったのです。資本主義的かつ産業的な生産様式によって構築されるものには、もはやほとんど「外」が残されていなかったために、芸術を把握し考えることができる場は、その「内」においてのみのことだったのです。それまで具象物(フィギュラティヴ)であった芸術について、それが抽象的なものになったと言うのは、ありきたりのことでした。起こりつつあったことは、とりわけ、芸術の生産様式が、さまざまな職人的実践と物象化した想像力(イマジネーション)[構想力]とによって、平坦的なものになり、資本制生産様式の猿真似をしているということだったのです。参照されるべき自然モデルも、題材とすべきイマージュも、もはやありませんでした。造形する[figurare]ということは、いまや、生産するということを意味するようになったのであり、また、自然は、すでに変形されたかたちでしか、その姿を現しえなくなったのです。すなわち、モンスター(奇怪でありながらも驚嘆すべき事物)、自然やさまざまな自然物形象(フィギュール)への追加や増加や人工補綴(プロテーゼ)、異種交雑、拡散、さまざまなパフォーマンス‥‥‥といったものの生産。芸術は、それ以来、さまざまな社会的構築やコミュニケイション的構築からなる未分化の多様体の内部へと傾斜していったのです。芸術は、ぼくたちみんながそのなかで行動している商品世界の一部となったのです。問いは、したがって、次のように改められました。すなわち、このような世界の内部において、芸術は、芸術家は、美を生産する活動は、いかにして行動しえたのか。文明史において、近代が終わるまでは、芸術的想像力(イマジネーション)[構想力]の大部分は、<現実的なもの(リアル)>を表現するということに存していました。しかし、いまや、現実的なものなどもはや存在せず、あるいはむしろ、現実的なものが存在するのは、あくまでも構築物としてもことであり、自然としてではもはやなく、加工されたものとしてのことなのです。生きた抽象物というものが問題となっているのです。その内部でいかに行動するのか。また、芸術的なものとして提示される対象(オブジェ)が、ときとして、ほんとうに美しかったとすれば、いったいそれはなぜなのか。 (more…)