2013/4/29 月曜日

これこそアヴァンギャルドの切望したものではなかっただろうか

Filed under: 引用 — nomad @ 18:27:51

未来派やアヴァンギャルドは自らにルールを破る任務を課した。錯乱はランボー以来二〇世紀の実験が残した伝統である。規制緩和はまた、記号資本の発展への途を敷きつめる後期近代的ハイパー資本主義のスルーガンでもあった。外的な機械と機械的速度の全体主義的時代において、かつては国家形態を用いて社会にルールを押しつけていた資本主義は、再結合技術とエレクトロニクスの絶対的速度によって内部化してコントロール可能となったので、国家の媒介なしに済ませることを決定したのだ。

マニュファクチュア的資本主義の古典的形態において、価格、資金、利潤の変動は必要労働時間と価値決定の関係に基礎づけられていた。ミクロ電子的技術の導入と生産的労働の知性化の結果によって、様々の生産諸力とそれぞれの大きさとの関係が不確定であるような時代に突入した。マーガレット・サッチャーとロナルド・レーガンが規制緩和を立ち上げたことにより価値法則の終焉が印され、この遺産が政治経済へと相続されたのだった。主著『象徴交換と死』においてジャン・ボードリアールは直感的に、千年紀の終わりの展開について全般的な方向性を導き出していた。

現実原則[リアリティの原則]は価値法則の特定の段階と合致している。今日では、すべてのシステムは不確実さのなかで動揺しており、現実なるものはコードとシミュレーションというハイパー現実に吸収されてしまう。

全システムが不確実性に陥り、象徴と指示対象、ジミュレーションと出来事、価値と労働時間といったあらゆる呼応関係はもはや維持されないものとなる。しかし、これこそアヴァンギャルドの切望したものではなかっただろうか?実験的芸術は象徴と指示対象の結びつきを切断したがってはいなかったか?こう述べることによって、リベラルな経済的規制緩和をもたらす要因となったといって前衛芸術を告発するのではない。言いたいのは、前衛芸術のアナーキーなユートピアは現実化されたのであり、そのうえで反対のものに転化したということである。社会がルールを内部化し資本が司法的法と政治的合理性の両方を放棄しえて内部化された自動作用のうわべのアナーキーに陥る瞬間。これこそ実のところ、全体主義の最も厳密な形態である。

フランコ ベラルディ(ビフォ)『プレカリアートの詩』
河出書房新社 2009年

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