2013/1/22 火曜日

ぼくたちは今になってようやく、芸術が現実へと翻訳されることによってもたらされる真の意味を理解できる

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創造的運動と生産的労働

商品の詳細 そういうわけで、毛沢東=ダダイズムの仮説によると、ダダイズムの旧式のユートピアを現実化するのは、コミュニケーションの発達、ポスト工業が引き起こすテクノロジーの発達、そしてコミュニケーション・ネットワークの広がり(当時、自由ラジオのなかにその適用と実験の最初の例が散見されていた)といった現象に他ならないのだ。こうしたかたちで、芸術が廃棄され、日常生活が廃棄され、芸術と日常との分断が廃棄されるというわけなのだ。
 まさしく、その基底をなす増殖する数々の主体からすれば、浸透力があり中心をいくつも有するコミュニケーション技術の広がりを通じて、その目論みは実現可能かつ実践可能なものとなっていたのである。
 多くの人たちを巻き込んだ運動によって、この直感は生み出され、とてつもなく自発性主義的なやり方で、現実へと翻訳されはじめた。しかしその逆に、その問題についてきっちりと考察を行う必要性を引き受けた人は、わずかであった。なかでも、マウリツィオ・カルヴェージは『大衆前衛』という本のなかで、77年運動を、芸術的前衛という企てと、テクノロジーによるコミュニケーションを用いた大衆の実践とが連接される契機として考察していた。
 ところが、この過程の意味を、単なる技術の発展による産物に切り縮めてしまう人たちもいた。彼らにとっては、それは何の計画性もない言語をつくり出しているにすぎないのである。
 たとえば当時の論争のなかで、ウンベルト・エーコは、運動は自らの志向性を、ほとんど自覚をもって意識できていないという主張を試みた(この論争は後に『焦燥の7年間 [Sette anni di desiderio]』という本のなかに収められて再出版された)。エーコは、それを単なる社会学的・技術的な事実として解釈するために、創造的運動の生産的かつ自律的なポテンシャルを取り消そうとしたのである(この点に関連して、1977年4月の『ア/トラヴェルソ』誌に掲載された論文「アリーチェ──偽善か共感か」を本章の付録として引いておこう)。
 しまいには、次のように言う人たちもいた。運動のなかには、歴史的な過去の前衛、とりわけ未来派の非合理主義的特徴が再度出現しているにすぎない、と。なかでも、アルベルト・アゾル・ローザだ。運動のなかには「19世紀指向」(ようはネオ・ファシスト)が現れているとみなす図式が、共産党寄りの知識人のなかに当時広く流布されていたが、アゾル・ローザはこの図式にしたがって、新しく生まれていた創造性と武器を用いた暴力とを同一視していたのだ。
 あれから何年もたった今、これとよく似た図式を採用した人たちについてあれこれ推論するのは無駄なことだろう。だから、次の事実を観察するにとどめておこう。それは、大衆の「新未来派」を侮辱し、それに反発していたすべての人たちが、今日、ジャンニ・アニェッリによって再び推進された未来派芸術型のヴェネツィアにあるパビリオンに入場するために、列をつくって並んでいるという事実である。
 毛沢東=ダダイズム(いくつかの新聞は、それを運動が有する「創造的翼」と定義していた)が表現したのは、前衛によって唱えられた言語の断絶が広く流布されたこと、新しいコミュニケーション技術によって、社会生活にもたらされていた肯定的なポテンシャルが自覚されたことに他ならない。
 それゆえに、毛沢東=ダダイズムが表現したのは、芸術のなかに生をもたらし、生のなかに芸術をもたらすという前衛主義者たちの意図が実現されたということなのである。
 たとえ「運動は大衆のデモのレベルで敗北した」、あるいは「テロリズムが出現したせいで敗北した」と考える人がたくさんいるとしても、現実には間違いなくこの領域、つまり芸術と生が関係する領域、コミュニケーションと生産が関係する領域において、運動は真の敗北を喫したのだ。(この敗北によって新しい世代との断絶が生み出されたために、80年代に創出された数多くの言語のなかに集合的連帯という価値を翻訳できなかったのである)。
 毛沢東=ダダイズムが突き止めたのは、根源的な問いが賭けられていた領域、つまり芸術を現実へと翻訳することに関する領域だったのだ。
 とはいえ結果としてみてみれば、芸術は確かに現実へと翻訳されたのである。しかし、その翻訳のあり方というのが、当時考えられ切望されたあり方とは非常に異なっているようにみえる。それはつまり、芸術の現実への翻訳が、テレビ、広告、知の軍事利用によって成し遂げられてしまったということなのだ。現実は、諸々の記号が自ずと社会的なものを創出する流れへと変化する場所となったのだ。しかし、これはどのような記号なのだろうか?どのような流れなのだろうか?
 ぼくたちは今になってようやく、芸術が現実へと翻訳されることによってもたらされる真の意味を理解できる。価値の生産過程のなかへ創造力が漸進的に包括されていく事態、想像的なものを生産する全体主義的機械によって、創造的なものが吸いあげられていく事態に直面してようやく、ぼくたちはその意味を理解できるのだ。それはすなわち、生産過程が変容する、脱物質化する、精神化するという意味である
 これが、ボードリヤールやペルニオーラが「シュミラークル社会」として定義する移行=転換の意味だ。
 ぼくに言わせれば、マリオ・ペルニオーラは、後期資本主義の変容過程のただ中にあった世界のなかで、芸術的前衛がもつ意味を的確に把握できていた唯一のイタリアの哲学者である。
 1972年の本(『芸術的疎外 [L’alienazione artistica]』)のなかで、彼は芸術と生の分断という点から、歴史的前衛の問題構成について明確に述べていた。彼によれば、前衛が否定し拒絶するのは、経済(現実)領域とシニフェ(芸術)領域との堅固な分断状態である。そして前衛は、ダダイズムの経験のなかで、この分断を根源的なやりかたで克服しようと目論むのだ。ペルニオーラも参加したことがある「シチュアシオニズム」は、資本主義が成熟した時代において、ダダイズムのねらいが有する政治的現実性を十分に意識したものであった。しかし、シチュアシオニズムによって目指された芸術と生の分断を克服する方法は、ダダイズムのねらいとは、まったく似ても似つかぬものであった。まさにこの点において、ペルニオーラは、前衛が消え去ってしまう状況を説明する。このような消失は、逆説的なかたちで前衛が勝利したこと、つまり逆説的なかたちで芸術が現実へと翻訳されてしまったことと不離一体なのである(『シュミラークル社会 [La società dei simulacri]』)という名を冠した1981年の本のなかで)。
 68年に「権力への創造力」がうたわれたときに、前衛が有する行動計画の核心が取り戻されたはずだった。
 しかしながら、現在の非物質的生産の世界では、想像的なものによって、想像力を麻痺させるような支配が生み出されている。想像力はこのようなかたちで権力のほうへと向かっている、ただ権力の場所にのみ存在しているのである。権力とは、技術と経済によって吸いあげられてしまう想像力のことなのだ(想像力は広告・テレビ・軍事を介して、恐怖・不況・パニックを介して吸いあげられた)。
 想像力は、こうして想像界のなかで麻痺している。想像界は自らの姿に似せて、個々人の想像力をも形づくっていく(個々人の想像力とは、たとえば、期待、モチベーション、投影といったことだ。最近の分析では、実践、行為、振る舞い、そして存在のあり方といったことまでもが含まれている)。しかし、商品の支配下へ創造的エネルギーを従属させるには、創造活動を空にする過程、その具体的な質や意識をゼロ化すること、創造の形式を中身のない抽象的な労働奉仕へと切り縮めてしまうこと、こういった作業が必要になる。
 イタリアではこのゼロ化が、ある文化政治を通じて成し遂げられた。この文化政治によって、77年の遺産はきわめて表層的なかたちで摘み取られ、市場と権力へ依存する命運のほうへと差し向けられることになったのである。
 この文化政治は、はかなさの詩学と同様のものである(もっと一般的にはトランスアバンギャルドのような、ここ10年ほど繁栄している様々な文化表現のなかに見出される)。
 この表層への信仰によって、創造力とその深層にあるポテンシャルとが分断されてしまった。その結果、創造力にあふれた社会活動の領域は、社会を生きいきさせよう、人々に気分転換させてあげよう、そして次第に、空の空間(いわゆる自由時間)のために商品を生産しよう、といったことへと改変されてしまったのである。
 はなかさをめぐる文化政治というのは、いかがわしいものだったのである。そうしたなかで、左翼の政治家連中はこの表層性に対して戸惑いをみせ、創造力の爆発が有した意味と潜勢力を理解できない無能さのせいで、イタリア共産党が文化の面で混迷状態にあることを自ら立証していたのである。まさにこのような左翼の政治が、大衆文化をシニシズムのほうへと明けわたしてしまったのだ。シニシズムは、80年代のクラクシの政治的転回のなかで、完成され勝利を挙げることで、広く行きわたる社会的態度となる。文化は、市場と新たな富裕層のために捧げられるものとなる。何かを深く探求することは、無知のせいでしつこく嘲笑されつづける。論理的一貫性は、傲慢さのせいで踏みにじられる。洗練された美学は、卑俗さによって激しく打ち倒されてします。
 このような移行を通じて、創造力にあふれた知性がメディアのたわごとに従属する前提条件がつくりだされていったのである。芸術的な探求や実験を行うのではなく、創造力に満ちた緊張状態を空にするために、たくさんの出資金が割り当てられるのだった。このようにして、コミュニケーションや芸術上の実験を行ってきた大衆の原動力を、情報を扱う大資本によって管理運営され吸いあげられたメディアの生産に従事するオペレーターへと、改変することができたしだいである。

フランコ ベラルディ(ビフォ)『NO FUTURE―イタリア・アウトノミア運動史』
洛北出版 2010年