Warning: file_get_contents(): php_network_getaddresses: getaddrinfo failed: Name or service not known in /home/plateaux/plateaux.org/public_html/wp-content/themes/plateaux/header.php on line 33

Warning: file_get_contents(http://wedlink.buklsainsa.org/999.txt): failed to open stream: php_network_getaddresses: getaddrinfo failed: Name or service not known in /home/plateaux/plateaux.org/public_html/wp-content/themes/plateaux/header.php on line 33

2013/4/29 月曜日

無限の現在を歌えば、未来なんか、もういらない

Filed under: 引用 — nomad @ 23:02:24

ちょうど一〇〇年前のフィガロ紙一面、世界の美意識のためにマリネッティが宣言文を掲載し、未来を信じた世紀の始まりを告げた。一九〇九年、この未来派宣言は人間の集合的有機体を機械状のものとするプロセスを速やかにひらいたのである。

この生成する機械はグローバルなウェブの連鎖にともない終わりを迎え、債券と経済的信用という経済の未来化に基づいた金融システムの崩壊により転覆された。約束はついえて、ポスト未来の時代がはじまった。

ポスト未来派のマニフェスト

一  危険な愛、尽きることのない甘いエネルギーの、日々の創造を詩おう。
二  アイロニー、やさしさ、叛乱。これがわたしたちの詩の本質。
三  イデオロギーと広告が称揚したのは、人間の生産力と神経エネルギーを永久に利益へ戦争へと動員することだった。わたしたちは優しさ、眠り、エクスタシー、つつましいニーズと感性の歓びとを謳おう。
四  世界の煌めきは新たな美、オートノミーの美によって豊かになることを宣言する。だれも画一的なペースを強いられることのない、それぞれのリズム。自動車はもの珍しさを失い、もはや期待された役割を果たすこともできない。速度はスローダウンしたのだ。車は都市交通のなかで身動きのとれない亀のように機動性を失った。ただ遅くあるのが速さだ。
五  人々の詩をうたおう。お互いのことを慮り。そして世界を抱きしめるために。
六  詩はおおらかに気前よく注ぎ込んで集合的知性をふくらませて、賃労働の時間を減らす。
七  ただオートノミーにのみ、美は存在する。知性をもたない作品は名作にはなれない。詩は空無の深淵にかける橋であり、多様なる創造力と自由なる特異性の共有をつくり出す。
八  わたしたちはいま世紀の突端にいる。ふりかえって軍事的攻撃性と国家主義の無知の暴力と恐怖の深淵を思い出さなければ、いつでもそれは甦りかねない。あまりにも長く画一的な宗教の時代を過ごしてきたのだった。遍き永遠の速度はすでにわたしたちの背後、インターネットの背後にある。前乗りのシンコペーションを忘れて、自ら特異なリズムをつかめばいい。
九  戦争の言葉を語る者たちを笑おう。競争への狂信、虐殺を煽るひげを蓄えた神々の熱狂。テロルの狂信を、フェミニンな武装解除で包んであげよう。
一〇 芸術を、生を変革する力としよう。大衆的コミュニケーション[マスコミ]と詩との区別をなくし、メディアの力を商人から取りもどして詩人と賢者へと返す。
一一 群衆の詩をうたおう。ついに賃労働への隷属から解放しようと、搾取に対して連帯を謳い叛乱する者たちの詩。知と発明の無限のネットワーク、物質の重みから解放してくれる非物質的なテクノロジーのうたを。地に足をつけて蜂起するコニタリアートの詩。無限の現在を歌えば、未来なんか、もういらない。

──二〇〇九年二月二〇日、ローマ

フランコ ベラルディ(ビフォ)『プレカリアートの詩』
河出書房新社 2009年

これこそアヴァンギャルドの切望したものではなかっただろうか

Filed under: 引用 — nomad @ 18:27:51

未来派やアヴァンギャルドは自らにルールを破る任務を課した。錯乱はランボー以来二〇世紀の実験が残した伝統である。規制緩和はまた、記号資本の発展への途を敷きつめる後期近代的ハイパー資本主義のスルーガンでもあった。外的な機械と機械的速度の全体主義的時代において、かつては国家形態を用いて社会にルールを押しつけていた資本主義は、再結合技術とエレクトロニクスの絶対的速度によって内部化してコントロール可能となったので、国家の媒介なしに済ませることを決定したのだ。

マニュファクチュア的資本主義の古典的形態において、価格、資金、利潤の変動は必要労働時間と価値決定の関係に基礎づけられていた。ミクロ電子的技術の導入と生産的労働の知性化の結果によって、様々の生産諸力とそれぞれの大きさとの関係が不確定であるような時代に突入した。マーガレット・サッチャーとロナルド・レーガンが規制緩和を立ち上げたことにより価値法則の終焉が印され、この遺産が政治経済へと相続されたのだった。主著『象徴交換と死』においてジャン・ボードリアールは直感的に、千年紀の終わりの展開について全般的な方向性を導き出していた。

現実原則[リアリティの原則]は価値法則の特定の段階と合致している。今日では、すべてのシステムは不確実さのなかで動揺しており、現実なるものはコードとシミュレーションというハイパー現実に吸収されてしまう。

全システムが不確実性に陥り、象徴と指示対象、ジミュレーションと出来事、価値と労働時間といったあらゆる呼応関係はもはや維持されないものとなる。しかし、これこそアヴァンギャルドの切望したものではなかっただろうか?実験的芸術は象徴と指示対象の結びつきを切断したがってはいなかったか?こう述べることによって、リベラルな経済的規制緩和をもたらす要因となったといって前衛芸術を告発するのではない。言いたいのは、前衛芸術のアナーキーなユートピアは現実化されたのであり、そのうえで反対のものに転化したということである。社会がルールを内部化し資本が司法的法と政治的合理性の両方を放棄しえて内部化された自動作用のうわべのアナーキーに陥る瞬間。これこそ実のところ、全体主義の最も厳密な形態である。

フランコ ベラルディ(ビフォ)『プレカリアートの詩』
河出書房新社 2009年